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【書評】科学的認知症診療 5 Lessons

久しぶりにブログ記事にして紹介したい書籍を読んだので書評を書いてみます。

 

出版社:シーニュ

タイトル:『科学的認知症診療 5 Lessons』

著者:小田陽彦

 

まず、著者の小田陽彦先生とは、以前に何度かEBMワークショップでご一緒して懇親会で飲みながら語り合ったことがあることを申し添えておきます。

金銭的なCOIはありませんが、「仲良しバイアス」が入り込む余地は否定できませんw

 

それにしても、その時に小田先生とした話の中には

きちんとしたエビデンスに基づかないで「指導医から教わったまま何となく」な精神科医の診療や、メーカーの情報を鵜呑みにしてそれで分かったつもりになって向精神薬を気軽に処方する一般科の医師について嘆いておられたのが印象的でした。

その後も「討論 厚生労働科学特別研究事業による「かかりつけ医のためのBPSDに対応する向精神薬使用ガイドライン」の問題 : BPSDガイドラインの批判的検討」(精神神経学雑誌 118(6), 384-390, 2016)(残念ながらフリーでは抄録も読めませんが)といった論文を出して、特に認知症分野でエビデンスに基づかない治療薬の選択の仕方や、粉飾されたエビデンスや、エビデンスを拡大解釈した推奨文の根拠などを鋭く批判されていたので、

 

実のところ、普段どのように診療しておられるのだろうか?

 

というのはすごく気になっていたところでした。

だってなんだかんだ言って精神科ってエビデンスが示す通りにならないほうが普通というか、

そもそも「疾患」と「病態」が確たる線で繋がっているわけでもなく

表出している症状で分類している「症候群」的な診断基準なんだから

そもそもエビデンスに組み入れられる患者も極論すれば十人十色なわけです。

そんなんでどうやってエビデンスを適用するんですか?

私は昔EBMを勉強し始めた頃はすごく悩みましたよ。

 

で、そういう悩んでいた頃にこの本が登場していれば良かった……

そんな書籍がこの『科学的認知症診療 5 Lessons』ですが、

まずいきなり

 

「認知症という疾患は存在しない」

 

とまあ、まるで私が

「広島に広島焼きなんて食べ物は存在しません」( ー`дー´)キリッ

(お好み焼きならあります)

と言い切るかのごとく、

何となく世間にある「認知症という疾患」のイメージをぶった斬るところから始まります。

 

そして

1.認知症診断の原理原則

2.画像診断の意義と限界

3.抗認知症薬

4.精神症状への対応

5.医療者ができること

という5つのレッスンで構成されており、

まえがきの部分であえて「最新の臨床研究や系統的レビュー、すなわち科学的根拠を紹介することに徹しました」としているように、一切事例を紹介せずにガチガチにエビデンスでロジックを固めているところが

自説に都合良く何とでも受け取れる情報を排していて潔い感じがしています。

 

この書籍は一般臨床医向けに書かれていますが、

認知症の方に関わることがある薬剤師であれば役に立つ情報が多くあります。

 

まず認知症の診断は除外診断が基本になっていて、

当然薬剤性の認知機能障害も除外できるか鑑別しなければなりません。

薬剤師は診断をするわけではありませんが、

目の前の患者さんの「困った症状」に対して薬剤性を疑えるかどうか?

これは医師に対する情報提供としてやらなければならないことです。

認知症あるいはその周辺症状に似た状態を呈する薬剤についても

エビデンスとともにところどころで解説されていますので

ぜひ頭の片隅に置いておいて、いざという時に

ピンとくるようにしておきたいところです。

 

他にもBPSDに対する薬の使い方もいいですね。

確かに抗精神病薬は大規模なメタ解析でBPSDに効果があることが示されていますが、

一方で死亡リスクを増やすこともまたこれまでの数々のエビデンスから明らかです。

ではどういったケースでそれが適応になるのかというと

「自傷他害のおそれ」という実に明確な線引きを示しています。

つまり、有効というエビデンスに重きを置いて死亡リスクに目をつむるのではなく、

死亡リスク増加というエビデンスに重きを置いて一切使わないのでもなく、

患者さんや介護者の話をよく聞いてその「自傷他害のおそれ」がどれぐらいか、

そこで判断しましょうということです。

こういった考え方を知っておくと、

薬剤師からの処方提案にも(抗精神病薬の開始でも中止でも)活かせると思います。

 

いや、すごいです、小田先生。

きっと普段の診療でもこんな感じで

エビデンスベースドでありながら、しっかり患者さんや家族に寄り添った

まさにEBMの実践をされている精神科医の先生なんだなというのが伝わってきました。

 

それにしても、ドネペジル、ガランタミン、リバスチグミンに関する

コクランのシステマティックレビューを根拠に示して

「コリンエステラーゼ阻害薬間の薬理作用の差は無視して結構です」

てところが個人的には一番ツボでしたねwww

ブチリルコリンエステラーゼ阻害やAPL作用がナンボのもんじゃい!

とか言うと立つ瀬のない薬剤師がいるかもしれませんが、

そういう薬剤師はぜひこれを機に、薬理が臨床効果の差異を決めているのでなく、臨床効果の差異を説明するのに薬理が必要なのだということに気付いていただければと思います。

そういう薬理学的な差異は臨床効果が一緒なら「トリビア」だと思っときましょう。

 

さらにもう一つ本書の興味深いところは、

抗認知症薬の承認の背景をPMDAの審査資料を丁寧に読み解いているところですね。

製薬企業がいかに苦心惨憺して承認にこぎつけたのかよく分かりますし、

同時にそれは、我々は簡単に騙されるということを示しています。

別に製薬企業に悪意があるというわけではなく、

効果があるように粉飾したエビデンスはちょっとみただけじゃ見抜けないということです。

こういったところ、

普段の臨床業務中はとてもじゃないですが読み込めませんが、

それでも批判的吟味の目は持っておくと自分で気付けるかもしれません。

そういった批判的吟味の目を磨くためには

各地で開催されているEBMワークショップに参加しましょう。

 

いきなりEBMワークショップは参加しにくいですか?

そしたら、薬剤師のジャーナルクラブ「JJCLIP」がありますよ!

次回は11/11(日)の21時からです。

しかもテーマはまさに「薬のせいで認知症になるって本当なのでしょうか?」です!

その時間に私のTwitterのライムラインに注目していただくか

こちらにアクセスしてもらえれば誰でも視聴できますので

お気軽にご参加いただければと思います。

 

ということで、宣伝までさせていただきました!

 

 

JUGEMテーマ:精神科


【立てよ薬剤師】薬剤師によるブログのススメ

我々は一人の英雄を失った。しかし、これは敗北を意味するのか?

……否!始まりなのだ! 
ググってもカスみたいなサイトに比べ、我らのブログのPVは30分の1以下である。 
にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か? 
諸君!我らが #立てよ薬剤師 の目的が正義だからだ。

これは諸君らが一番知っている。 
我々は仕事に追われ、ただそれをこなすだけの日々を過ごしていた。 
そして、心のダークサイドを膨れ上がらせながら世を恨むこともあったここまでの薬剤師人生、
がんじがらめな我々が自由を要求して何度踏みにじられたか。 
薬剤師の掲げる国民一人一人の健康と薬事衛生のための戦いを神が見捨てるはずはない。 


私の弟のようだった、諸君らが愛してくれたニンジャ先生は死んだ。 
何故だ!?

 

新しい時代を切り開く者たちが当初マイノリティであるのは、歴史の必然である。 
ならば、我らは襟を正し、この戦局を打開しなければならぬ。 
我々は過酷な臨床の現場で仕事をしながらも共に苦悩し、錬磨して今日の文化を築き上げてきた。 
かつて、ニンジャ先生は「薬剤師は現代に生きる忍者だ」と言った。 
しかしながら世間のモグラ共は、「薬剤師なんてイラネ」と増長し我々に抗戦する。
これに対抗できるのは、丁寧に反論できるエビデンスを示せる薬剤師だけだ! 
これは悲しみではなく希望であることを忘れてはならない!

それを、ニンジャ先生は、医師が涙を流す事例をもって我々に示してくれた! 
我々は今、この希望を結集し、世の中に行き渡らせて、初めて真の勝利を得ることができる。 
この勝利こそ、国民全てへの大きな幸福となる。 


薬剤師よ立て!

悲しみを希望に変えて、立てよ!薬剤師よ! 


我らここで立ち上がった者こそ選ばれた薬剤師であることを忘れないでほしいのだ。 
希望を持った我らこそ国民を救い得るのである!!

 

ジーク・ジオン!!!

 

ジーク・ジオン!!!!

 

ジーク・ジオン!!!!!

 

……さあみなさんも一緒に、

ジーク・ジオン!

 

……もういいですか。そうですか。

 

はい、というわけで(^^;)

今回は「立てよ薬剤師」を合言葉に一斉にブログをアップする企画ということで

それに便乗させていただいてワタクシも久しぶりにブログをアップしてみます。

一緒にアップされた方々のブログはこちらです。

とりあえずざっくり把握してるだけなので、

「うちのブログがリンクされてないぞ!」という人は

ツイッターあたりでご連絡くださればこっそり更新しておきます(^^;)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

立てよ薬剤師プロジェクト(第二弾)

 

ブログ名:薬剤師ときどき父

管理者:薬剤師ときどき父(やくちち)

タイトル:【立てよ薬剤師プロジェクト】日本薬剤師会学術大会@金沢はやっぱり最高だった!【ソクラテスがやってきた】

http://yakuzaishi.xn--tckwe

 

ブログ名:黒の薬剤師会

管理者:るるーしゅ

タイトル:

https://ph-lelouch.com/

 

ブログ名:窓際さんのお勉強な日々

管理者:zuratomo

タイトル:「立てよ薬剤師」第二弾:薬剤師が情報発信をする意味? 

http://zuratomo4.hatenablog.com/

 

ブログ名:よろず屋「雅(miyabi)」のみたて

管理者:山本雅洋

タイトル:#立てよ薬剤師 自分を体現するためにぼくは今日も文章を綴る〜正解のない世界で『応え』を創造せよ〜

https://pharmasahiro.com/

 

ブログ名:〜学びと気付きの場所作り〜

管理者:GORIABURA21

タイトル:『立てよ薬剤師プロジェクト』なぜ私はブログを書こうと思ったのか

http://manabi-to-kiduki-no-bashodukuri.hatenadiary.jp

 

ブログ名:けいしゅけのブログ薬局 情報館

管理者:けいしゅけ

タイトル:【立てよ薬剤師 第2弾】薬剤師としてブログやSNSで情報発信をする目的は?

https://keisyuke-blogyakkyoku.xyz/

 

ブログ名:新米管理薬剤師の独立への道

管理者:ふぁるめど

タイトル:【立てよ薬剤師 第2弾】情報は発信すればするほど、自分を大きく成長させる

https://farmed.xsrv.jp

 

ブログ名:Re: 論文至上主義をゼロから考える薬局

管理者:根本真吾(猫になりたい薬剤師)

タイトル:【立てよ薬剤師プロジェクト】猫がブログを書く理由 〜インプットとアウトプットのハイブリッド〜

https://noirvan13.xsrv.jp

 

ブログ名:お薬のこと

管理者:たけちゃん

タイトル:立てよ薬剤師−プロジェクト ブログを書く理由

http://nitro89314.hatenablog.com/ 

 

ブログ名:アポネットR研究会・最近の話題

管理者:小嶋 慎二@アポネット

タイトル:【立てよ薬剤師プロジェクト】 WEBでの情報発信16年間を振り返る〜簡単に入手できる最新の副作用情報と国内外の薬剤師を巡る動向

http://www.watarase.ne.jp/aponet/blog/180901.html

 

ブログ名:一問一答!薬剤師・薬学生のためのプライマリケア

管理者:こつぶ

タイトル:薬剤師の価値に満足してますか?

https://cotsubu.info/

 

ブログ名:ぼうそう医薬情報室

管理者:小石まり子

タイトル:【立てよ薬剤師プロジェクト】人見知りこそブログを書こう!一石三鳥のブログ活用術♪

https://iyakujoho.com/

 

ブログ名:薬剤師の脳みそ

管理者:ぺんぎん薬剤師

タイトル:【立てよ薬剤師プロジェクト】「薬剤師の脳みそ」を続けている理由

http://pharmacist.hatenablog.com/

 

ブログ名:リンコ’s diary

管理者:リンコ

タイトル:「薬剤師としてブログを書く理念や理由・目的」(#立てよ薬剤師)(#WorldPharmacistsDay)

http://www.rincos-diary.com/

 

ブログ名:ぼくのパパはおくすりやさん

管理者:ふーた

タイトル:ブログを始めた理由を振り返る。そして一歩でも前に

http://wruskniph.xyz

 

ブログ名:「くすりや」の「現場」

管理者:みやQ

タイトル:【立てよ薬剤師】ブログやSNSでの発信、その目的とその先にあるもの

http://miyaq.hatenablog.com/

 

ブログ名:「お薬Q&A〜Fizz Drug Information」

管理者:Fizz

タイトル:【立てよ薬剤師2】薬剤師の情報発信を増やしたい理由〜日薬学術大会の発表報告と今後の課題
https://www.fizz-di.jp/archives/1072597592.html

 

ブログ名:「思想的、疫学的、医療について」

管理者:青島周一

タイトル:【立てよ薬剤師】差異を許容することと、「より生きやすい」というアウトカム

http://syuichiao.hatenadiary.com/

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

このあたりの経緯は日本薬剤師会の学術大会で

ポスター発表になったらしいですね。すごい!

ポスターが公開されてますのでぜひ御覧ください。

【P-22-09】インターネット上に氾濫する不適切な医療情報に対し、薬剤師がブログやSNS の発信でできること(@第51回日本薬剤師学術大会in金沢)

 

さて、第2回めとなった「立てよ薬剤師」という企画、

前回は

「立てよ薬剤師」

ならびに

「医療や健康に関する情報について、我々は何を信じ何を信じないべきか」

というテーマで書かせていただきました。

(前者はおふざけ、後者はちょっと真面目に書いてます)

今回、ここで書いてみようかなというテーマは

「なぜ薬剤師がブログなんてしてるの?」

ということです。

 

そうですね、最近マジメにブログの記事を書いてない者がそんなこと語れるのかというと少々ゴニョるところがありますが、まあ、そもそもは精神科の薬剤師のアピールになれば!というつもりで書き始めたんですよね。

あまりスポットライトが当たらない、ひっそりと仕事している精神科領域の薬剤師。

でも学会とか見学とかで色んな取り組みをされているのを見ると

何気に良い仕事してらっしゃるところが多い!

でも、それをちゃんと文章として残せていない!

これって非常にもったいないなと思ったわけです。

それでいうなれば精神科薬剤師のブランディングという目的で書き始めたわけですが、

実際やってみると当時の自分の思いが強すぎてあまり機能している感じはしなかったですね(^^;)

とはいえ、私個人のブランディングには一定の効果はありまして、

このブログ経由で原稿執筆や講師の依頼が来たこともありましたし、

自分が普段何をやっているか、そして将来どうなっていきたいか、

これをきちんと主張することは大事なことであるといえます。

 

まあ、私の場合はそのような目的ではツイッターのほうが向いていたようで

その後は徐々に発信の場がツイッターに移っていってしまうのですが……

 

しかしまあ、

ツイッターはある程度フォロワーがつくと拡散性には優れるのですが

それまでがなかなか見向きもされないし、

Googleで検索してみてヒットしやすいのは特定のツイートではなくブログの記事であったりするので、

今から何か文章を残してみようと思う人は

とりあえずブログを始めてみるのがいいんじゃないでしょうか。

 

ブログの始め方については無料のものについては

そのサービスを提供してるところに簡単なマニュアルがありますし、

ちょっと気合い入れてやってみようという人には

けいしゅけさんのブログのこちらのエントリーが役に立つと思いますのでリンク貼っときます。

多分将来の拡張や使い回しのしやすさを考えると、

無料ブログの機能使って書くよりはワードプレス使って書いたほうが良さそうです。

 

ワードプレスでブログをカンタンに作る全手順と設定方法を教えます!|けいしゅけのブログ薬局 情報館 

 

まずはそれで、日々の成功体験でいいので書いてみることをおすすめします。

まあ、日記の延長みたいなのでいいんじゃないですかね。

ただし、それをただの日記で終わらせないように、

必ず客観的な視点を入れて書いてみてください。

客観的な視点を入れることで説得力がグッと増します。

 

では、どのようにして客観的な視点を入れるかというと

一番手っ取り早いのはエビデンスを引用することです。

エビデンスというのは無理に論文を引っ張ってこなくてもいいので

誰かのブログ記事を引用するのでも良いですし、

ニュースサイトの記事を引用するのでも良いと思います。

とにかく、第三者の意見を取り入れて、

自分の主張を強化したり、逆に主張に沿わないエビデンスに対して

それはなぜなのかを具体的に反論できると

俄然そのただの日記みたいだった記事が光り始めます。

 

それだけでいいんです。

 

それをしばらく続けて慣れてきたら、

文章の構成を考えてみるといいんじゃないですかね。

まず背景や課題を説明し、

そしてどういった仮説を立てたのか、

自分でどういうことをやってみて、結果はどうだったとか、

それらは客観的には支持されるのか、

あるいはこれまで考えられたことに対して反論できるのか

それらから結論として何が言えるのか、

こういった感じで書いていたら、

それもう立派な論文ですから!

 

ね?なんだか論文まで書けるような気がしてきませんか?

 

とにかく、せっかく良いことやったんならそれを形に残さないともったいないので

みんなの成功体験を共有するという意味だけでも

ブログを書いてみたらいいんじゃないかと思います。

 

 

【おわりに】

今日のエントリーを

EBM初心者の薬剤師として日々臨床医学論文を自分で読んでみて

その結果をブログとしてまとめて熱心にアップされた

故 黄川田修平先生に捧ぐ。

【薬局薬剤師の記録的巻物】が更新されなくなって1年。

一人でも多くの薬剤師が自分の歩みを形に残していくようになることを願う。

その先に、黄川田先生の願った薬剤師の未来がありますように。

 

 

JUGEMテーマ:身近な医療と健康


医療や健康に関する情報について、我々は何を信じ何を信じないべきか

前回の記事の続編です。

薬剤師が同時多発的にブログをアップして

「ネット検索の結果をもうちょいマトモにするために頑張ろうぜ」

という宣言をしたところですが、

なんか私だけ

 

「ジーク・ジオン!」

 

とか不可思議な記事をアップしてて非常に恥ずかしい思いをしたので

少しだけマトモな思考を巡らせて

自分なりの意見を一つ書いてみようと思います。

 

まず、情報の真偽を見定める方法というのは色々あると思います。

それを自分なりに理解することが大事というか

もはや必要なレベルなんですよ。

 

小学校で日本語の読み書きは習いますよね。

もう義務教育で(せめて中学校では)医療や健康関連のリテラシーは

広く国民に教育していただきたいぐらいです。

 

その時には、何が真偽を見定めるための「軸」というものが必要になると思います。

では、どんなことを軸にしていけばいいのでしょうか。

 

よく挙げられているのは、

「誰がその情報を発信しているか」

なんですよね。

例えば、ちゃんとした薬剤師が発信している情報を信じろ、

どこの馬の骨か分からんやつの言うことなんか信じるな、

とまあ簡単に言えばそんな感じなんですが、

 

今や薬剤師もトンデモ情報を発信してるヤツがいる時代ですからね。

それも馬鹿を騙して小銭を巻き上げるような方法で。

まあ、喧嘩したくないので具体的に指摘しませんけどw

 

結局のところ、

「誰がその情報を言っているのか」を気にするのは

権威主義に他ならないんですよ。

「権威の言うことには従え」

と言ってるみたいで、私はあまり賛同できないなぁ。

 

じゃあ、何を信じればいいのかということなんですけど、

少なくとも、「根拠を示さない情報」というのは信じないほうがいいでしょう。

それも論文とかの学術的な一次情報にたどり着けない情報は

信じる価値はゼロです。

この辺については以前に私自ら人柱となって血の涙を流した

PubMedのTips(Single Citation Matcherの使い方)』

という記事が有りますのでそちらを読んでみて下さい。

もっともらしいことが書いてあってもガセネタってことはあるんですよ。

まあ、国民全員がこういう感じで一次情報(学術論文)に当たることができるようにとは思いませんが、

少なくともそういう引用が何も示されていない医療や健康、

特に「◯◯の効果」とか「■■の害」とかいうことについての情報は

とにかく引用が無いかぎり信じないほうがいいでしょう。

 

公的機関が言ってるからとか、

有名な先生が言ってるからとか、

そういうのは関係ないです。

とにかく引用元が示されていないものは一切信じないというフィルターをオススメします。

 

とはいえ!

ここまでの話も、

引用元が【ない】情報は信用でき【ない】ということは証明できない、

いわゆる【ないことを証明】するための「悪魔の証明」というやつなので

これを信じろというのは要するに私が言ってる話を信じろということで

要するに先に批判した「権威主義」の一つになってしまいますので強く言えないところです。

 

つまり、ここまで私が言ったこともぜひ疑って欲しい。

 

しかし裏を返せば、

引用元が【ある】情報であれば、

それは信用に足る妥当性が【ある】かどうかは吟味できます。

いつでもどこでも誰にでも当てはまる情報というのはあまり無いことを前提にすれば、

あとは、どの程度までの妥当性を許容するかという程度問題だと思います。

その点から考えると、

引用元がある情報でないと

真偽の程を検討もできない、というのは確かだと思います。

 

ということで、

ひとまず医療や健康に関する情報について

ネット上に漂うカスみたいな情報に踊らされたくなかったら

まずはきちんとした引用があるのかどうかを確認していただきたいと思います。

そしてその引用元の情報がきちんとした妥当性があるのかどうかについては

我々NPO法人アヘッドマップがそういった健康情報リテラシーの向上について

広く普及啓発をしていきたいと考えていますので

その活動にご賛同あるいはご参加いただければと思います。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

JUGEMテーマ:身近な医療と健康


立てよ薬剤師!

我らが強敵(とも)、るるーしゅ様が言われた。

今や「ググれカス」と言われたところで「ググってもカス」の時代であると。

確かに今やアテンションを集めることが至上となり、

その情報の妥当性のほどは一切顧みられないサイトが増殖した結果、

我々薬剤師がいくら正しい情報を伝えようとしたところで

患者がネットで知りたい情報を検索すれば

正しい情報に行き当たる前にカスのような情報を得てしまうのだ!

 

しかし、これは敗北を意味するのか?

 

否!

 

始まりなのだ! 


そのようなカスみたいな情報をばらまくサイトに比べ、

我ら薬剤師の発信力は30分の1以下である。 

それはこれまで各々がバラバラに情報を発信し、

全体として多くのアテンションを引きつけるという意識に乏しかったからではないか。

それでは仕事の片手間にブログをアップする我々が

本職でページビューを稼ごうと作り上げられたサイトに叶うわけがないのだ。

その結果として、不確かな情報に振り回される国民をTwitterなどで何度見てきたことか。

そのたびに、正しい医療や薬や健康に関する情報を提供したいと願う

我々の心が何度踏みにじられる思いをしたことか。 
薬剤師法第1条の掲げる国民一人一人の健康な生活のための戦いを神が見捨てるはずはない。 
しかし、結局何か健康関連のことをググってみたところで

最初の検索結果のページに表示されるのは根拠の薄弱なクソみたいな情報ばかりである。 
何故だ!?

 

大勢を占める情報がこの世の常識となってしまうのは、歴史の必然である。 
ならば、我らは襟を正し、この戦局を打開しなければならぬ。 
我々は過酷な臨床を仕事の場としながらも共に苦悩し、錬磨して今日の文化を築き上げてきた。 
しかしながらインターネットが情報を得る手段となった時代においては、

それが誤ったものであろうと発信力の強い情報が増長し我々に抗戦する。
このままでは諸君の関わる患者もその情報の無思慮な侵食の前に死んでいくかもしれないのだ! 
その時になって悲しんでも怒っても取り返すことはできない!

我々は今、この怒りを結集し、web上に叩きつけて、初めて真の勝利を得ることができる。 
この勝利こそ、国民全てへの最大の幸福となる。 
薬剤師よ立て!悲しみを怒りに変えて、立てよ薬剤師! 
我ら現場の薬剤師こそ医薬品を介せば一般市民の健康に最も近い存在であることを忘れないでほしいのだ。 
薬剤師である我らこそ日本の医療や薬事衛生を救い得るのである!

 

ジーク・ジオン!

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

えーっと、

前フリのネタが長くてすいません(^^;)

ネタですからね、全部本気にしないでくださいよ。

でもまあ言いたいことは何となく分かっていただければと。

 

ということで、

るるーしゅさんの呼びかけに賛同して、

薬剤師初の情報発信について、もうちょっと気合い入れて頑張ってみることにいたしました。

一人一人の力は弱くても、

何人もの薬剤師が集まってお互いにリンクしたりツイートし合ったりすれば

きっとググったら上位に来るようになるんではないかと。

こんな枯れかけたブログですが、

これから少しだけ頑張ってみようと思います。

改めてよろしくお願い致します。

 

追記:まずは各薬剤師ブロガーさんにリンクをしないとね。

ひとまず、こちらで。

落ち着いたらちゃんとリンクのところにも移します(^^;)

るるーしゅさんの『黒の薬剤師会』

青島周一さんの『思想的、疫学的、医療について』

熊谷信さんの『薬局のオモテとウラ』

kurieditさんの『ドラッグストアとジャーナリズム』

けいしゅけさんの『けいしゅけのブログ薬局』

小嶋慎二さんの『アポネットR研究会・最近の話題』

ネーヤさんの『おねぇ系薬剤師の言いたい放題』

Fizz-DIさんの『お薬Q&A 〜Fizz Drug Information〜』

ミニ丸さんの『pharmacist's record』

みやQさんの『「くすりや」の「現場」』

むむさんの『むむろぐセカンド』

やくちちさんの『薬剤師ときどき父』

よっしーさんの『薬剤師よっしーのブログ』

リンコさんの『さあ、薬剤師に目覚めよう!』

改めてちょっと眺めてみると、ホントにうちのブログの立ち枯れ具合が目立つのでもう少しだけ更新してみようと思いましたw

 

JUGEMテーマ:身近な医療と健康


【書評】『精神科病院で人生を終えるということ』

皆さんにとって、「精神科病院」それも精神科病棟を持っている大学病院や総合病院とかではなくて、いわゆる「単科」の精神科病院だとか「精神病院」とか言われてきた病院のことについてどのようなイメージを持たれているだろうか。

私は学生時代のアルバイトからずっと精神科病院で働いてきたので、イメージが上書きされてしまってほとんど覚えていないんだけど、子供の頃に、墓地の裏にひっそりと建っている窓には全て鉄格子という異様な雰囲気の病院を見つけて

「あれは何?」

と母に聞いたら

「あれはね、キチガイを閉じ込めとくとこよ。アンタも人の言うこと聞かんとわけわからんことばかりしょうると、あがなとこにブチ込むけえね」(広島弁)

と言われて、ちょっと怖いなと思った記憶なら、ある。

しかし、そのように人の目から遠ざけられて、まるで最初から無かったかのようにされて、近付くことも忌避されていたところにも、当然ながら多くの人の人生があり、ドラマがあったのだ。

現代ではうつ病や適応障害などが注目され、精神科医療も「隔離」から「癒し」の場へとシフトしてきたわけだが、かつて社会から「隔離」されてきた人たちがいなくなったわけでは決してない。

今も日本中の精神科病院でひっそりと生き、そして死んでいるのである。

 

本書は、そのような方々にスポットを当て、様々な葛藤や矛盾や答えのない問いに苦悩する若き精神科医の手記である。

 

という感じで偉そうに書いたら怒られるかもしれませんけどね(^^;)

ありがたいことに著者の東徹先生から献本と言ってよいのかご著書を送ってきてくださったので、簡単に感想を書いておきます。

書評とするからには、極力「くもりなきまなこ」で読んでみたつもりです。

 

さて、本書は基本的には日経メディカルで連載されていたコラムを加筆して書籍としたものだが、最初に手に取ったときの重厚さとは裏腹に、読んでみると楽に読める。

疾患や治療の説明が平易な言葉で丁寧になされているため、おそらく医療関係者でなくても読める内容になっている。

精神科医療をある程度理解している人であれば、そこらへんは飛ばして読めるし、1話ずつの構成になっているのでスキマ時間などに少しずつ読み進められるだろう。

 

本書のサブタイトル『―その死に誰が寄り添うか』は、本書の中で一貫したテーマである。

あなたは、自分の今際の際には誰が寄り添ってくれるか、考えたことがあるだろうか。

普通は家族であろうが、そうではない人が、精神科病院に長期入院しているケースでは結構多い。

本人の病気に振り回されて、家族も疲弊していることはよくあることで、そこに渦巻く感情が、「その死に誰が寄り添うか」を複雑にしていることがある。

 

(引用)

 本書のタイトルにある「その死に誰が寄り添うか」。家族が寄り添えない場合も多くご紹介してきました。細かい事情は様々ですが、病状の重さに疲れ果てて家族の心が離れていってしまったケースも多いのです。一般的に「家族のようなケア」という言葉は良い意味で使われます。家族なら親身になるのが当然だ、という発想ですね。しかし、時として、いや往々にして、家族だからこそ感情がもつれてしまう、冷静でいられなくなることもあると思うのです。愛憎は紙一重です。

 

確かに一切連絡を絶って関わろうとしない家族もいる。

個人的に「酷いなぁ」と思ってしまう家族もある。

しかし、事情を聞けば責められないケースも多いのだ。

それに、一時的に本人の病気と感情に振り回されただけで、実際にはその後もずっと揺れ動いている家族のほうが多数派である。

また、そのような家族の気持ちは時と場合によって揺れ動くことも描かれている。

例えば、延命治療を行うか、どの程度行うかということについて、引用してみよう。

 

(引用)

 やはり、家族も常に葛藤があるのだと思います。なるべく長生きしてほしい。けれど、そこまでしないといけないだろうか。それと、どこまでも世話を続けることにも限界を感じる。かといって、見捨てているようでそれはそれで心苦しい。

(中略)そしてそれは、家族だけでなく、本人の意思でも同じことだと思います。元気な時に思っていることと、体が弱ってから思うことは変わることがあるのは当然です。

(中略) もう少し付け足せば、元気な時に「延命治療はいらない」という明確な意思を、例えば書面に残して表明していたとしても、意識が混濁していたり、十分に意思表示ができなくなった時に、その思いは本当に変わらないのかという疑問もあります。意思表示ができないのと、感情がないのとは同じではありませんからね。

 

家族や、本人の判断は時間とともに揺れ動く。

そして、治療の判断をした医師も、揺れ動くのである。

 

(引用)

 胃瘻造設をした直後の数日は、もちろん「胃瘻を造設して良かった」と感じます。比較的安全に栄養を投与できるようになったわけですから。逆に言えばそう思うから胃瘻にしたわけです。

 しかし、1ヶ月後には少し印象が変わります。「食事も取れないで寝たきりのこの人の人生は、本当に意義があるのだろうか。胃瘻は無駄なことをしたのではないだろうか」。

(中略)しかし、3ヶ月後に今度は、「いや、これだけの期間、命を永らえることができたのだから、これは有意義なことだろう」と思えてきます。ところが、また1年後には、「生きる苦痛をただ延ばしているだけではないだろうか」と思えてきます。そして3年後には、「これだけの時間、生きることができたのが無駄なはずがない。無駄な命などない」などと思うのです。

 

そう、本書で展開される話は結局、精神科病院とはいえ、人がどのように亡くなるのかということにまつわる葛藤のストーリーだったのである。

ではなぜそれがことさら精神科病院ということがさも特殊なものとして取り上げられなければならないのか。

 

(引用)

院内には、簡素ではありますが葬儀ができる場所があります。中村さんもそこで葬儀を行いました。家族がいませんでしたから、参列者は病院のスタッフ、そして後見人だけでした。

(中略)そこへ、師長が数枚の写真を持ってきました。それは中村さんが若い頃の写真でした。

(中略)そこには、元気に笑っている中村さんの姿がありました。病院で開いた運動会の時の一場面、一泊旅行に行った時の様子などでした。長期入院の方も多く、運動会や旅行など、リハビリの一環としてそのような行事を病院でよく開いています。それらは形を変えながらも今も行っています。そして、その中村さんは、僕が担当してからの、寝たきりで話もほとんど通じなかった中村さんとは全く別人のようでした。

(中略)残念ながら、中村さんは社会復帰ができるほどには回復できませんでした。だから、ずっと入院していたのです。そう考えるのが当然です。

 しかし、写真を見ていて思うのは、本当にそうだったのだろうか、という疑問です。こんなに元気に笑っている人が、泊りがけで旅行に行ける人が、本当に退院できなかったのだろうか。病院ではなく、社会の中で暮らせなかったのだろうか。

(中略)写真を見ながら中村さんが社会に戻れなかった50年間に思いを馳せました。なんという長さだろうか、と気が遠くなる思いでした。

(注:本書における登場人物の名前は全て仮名です)

 

50年間!と驚かれた人もいるかもしれないが、私も自分の歳より入院期間が長い人と話したことがあって、その人に昔の写真を見せてもらったことがある。本当に衝撃的だった。と同時に、精神科医療が背負うものの重さ、業の深さを感じたものである。

 

「社会的入院」ということが語られることがある。

あまりに長い入院生活によって社会で生活する能力を失ってしまったために余儀なくされている入院といったニュアンスで使われているが、それにはもう一つ別の側面があって、社会のどこにも居場所がないために余儀なくされている入院といった意味もある。

精神障害者の何年、何十年に及ぶ長期入院は、あたかも精神科病院の問題であるかのように語られることがあるが、長期入院はあくまで「社会の要請に対応してきた結果」であって、重度の精神疾患を抱える人があなたの職場の同僚に、あるいは友人に、または隣人に、そして同居家族にいてもいいのなら、長期入院なんてそもそもありえないのだ。

 

ところが、実際には精神障害者への差別や偏見は、この日本の社会には厳然として存在する。

本書の中でも著者が何度も憤っておられるが、一般の病院が精神疾患(を持つ人の身体疾患の治療)を受け入れてくれないから、精神科に「身体合併症病棟」なるものが必要になるのである。

これはまさに差別や偏見が医療従事者の中にも根強いことの象徴かもしれない。

医療において患者の「たらい回し」という悪い意味の表現があるが、精神科病院と一般科病院との間には「キャッチボール」とでも言うべき状況も時に見られる。精神科としては「これぐらいの精神状態なら一般病棟でも大丈夫」と思って患者を搬送しても、十分に身体的治療を終えないうちに「もう大したことないからそちらで診てください」と送り返される。最悪断られる。一般科病院では何でもない病状であっても、設備もマンパワーも一般科病院と比べると見劣りする精神科病院でフォローできるものには限りがある。だからまたすぐに転院を要請することになる。でもちょっと不穏状態を呈しただけで送り返されてくる。結局多少無理しながら精神科でも身体疾患を治療しなければならない状況が生まれてきている。

(まあ薬剤師としてはそのせいで国試以来その文字すら見たこともないような不得手な薬をちゃんと効果や副作用をモニタリングして適切な使用方法を主治医に助言できるだろうかという不安とか突然亡くなられて高額な在庫を抱える恐怖とかでついつい憤ってしまうんだけど(^^;)

このような現状のなかで、精神科医療を担っている者がどのように悩み、苦しみ、そしてどのように希望を見出そうとしているか、これは本書を読み進めていくと具体的なエピソードとして明らかになるだろう。

 

しかし、だからといって一般病院や社会を責めることもできない。

そもそも、私たちは誰も「自分は全く差別や偏見感情を持っていない」と言うことはできないからだ。

これについては、本書の締めくくりとして、元のコラムにはなく加筆した章として「相模原障害者施設殺傷事件」を取り上げることで述べられている。

その事件の犯人が精神障害者であると決まったわけではないが、少なくとも措置入院という形で精神科医療が関わった事実はあるわけで、本書で述べられる考察を読むことを通して「精神疾患とは何か」を考えていくと「異常とは何か」に行き当たることにも気付いていただければと思う。

そしてその線引きをしているのは自分なのであって、自分にも差別や偏見の感情があるかもしれないこと、そして必要なのはそのような感情を無かったことにしてしまうのではなく、うまく折り合っていくことではないかということを私は改めて感じるのである。

都合の悪い部分を無かったことにしてしまおうとする態度こそが障害者(=マイノリティと言ってもいいかもしれない)を迫害する空気の源になっているのだから。

 

という風に書いたらなんだか重いように思われるかもしれないが、実際には先に少し引用したように、著者の優しい人柄(かな?実は実際にはお会いしてお話させていただいたことが無いので予想ですが(^^;)がにじみ出ているような優しいタッチの文章なので、表面的にはライトな読み方もできる。ただ、一旦本を閉じて目を閉じて考えてみると、上記のような思いが湧いてきた次第である。

 

そのような内容なので、冒頭に書いたように、一般の人でも精神科医療の闇の部分にちょっと興味がある人が読んでみるのはおすすめできるし、これはもしかしたら精神科病院における新人教育にも使える内容かもしれないと思っている。

少なくとも、私のような精神科薬剤師には間違いなく読むことをオススメしたい。

薬剤師がつい忘れがちになる精神科医や患者や家族の悩みについて触れることができるだろう。

 

唯一気になった改善点を申し上げるとしたら、事実に基づいているとはいえ、全て架空のエピソードとして書かれていること、そしてその点を度々強調されていること、そしてあらぬリスクを避けるためと拝察いたしますが自己弁護が多いこと、これらがやはり本書への引き込みや感情移入を阻害しているように思われ(まあ元々日経メディカルという医療者向けメディアでの連載ということを考えると、そういう読み方は著者は期待してなかったかもしれないが、一般の人に読んで欲しかったら必要なことかもしれない)、ルポルタージュのようなものとして読み進めるとくすぶったような微妙な感じがあるので、このように一冊の書籍としてまとめるのであれば、もういっそのこと「若き精神科医の苦悩のドラマ」として小説にでもしてしまったほうが良かったかもしれない。

いや、これはイチ読者の勝手な意見ですけど、今からでも脚本にしてテレビドラマ化(あるいは自主制作してYouTube?)を目指してみたらいいんじゃないですかね?結構強いメッセージがあるように思いますけどいかがでしょう。

 

精神疾患とは何か。

精神障害者が受ける処遇は誰が望んだものなのか。

そしていつか必ず誰にでも訪れる死には誰が寄り添うか。

目を背けるのでも無かったことにするのでもなく、

本書を手に、一度は身近なものとして考える機会を持ってみてはいかがでしょうか。

 

 

 

JUGEMテーマ:精神科


JJCLIPのNPO法人化について

今年6月12日につくば市で開催させていただいた
「薬剤師のジャーナルクラブJJCLIPシンポジウム2015」ですが、
募集当時は強気な発言ながらも心の中は不安だった私の心配をよそに
なんと12名もの参加者が来てくださいました!
決して安くはない参加費を設定させていただいたのですが、
ちょうど会場費などの諸経費をみんなで出し合う感じになったので
運営面では大成功だったと言えます。
ではその中身は・・・
これも様々な喜びの声をいただき、
まだまだ改善の余地や当日の不手際の反省もありますが、
ディスカッションはとても盛り上がりましたし、
大変盛況のうちに無事終えることができたとは言えると思います。

さて、その中でお話しして、昨日のJJCLIP配信の中でも触れました、
「NPO法人化」について
皆様からのご協力をいただくためにも改めてこちらでも説明しておこうと思います。

昨日の配信、論文は読まなかったのですが、それでも90分に渡って常時40人以上の方々にご視聴いただきました。
これは本当に嬉しいことです。
論文の読み方使い方の勉強会というだけの価値を超えて、こんなに多くの方が、「JJCLIP」を合い言葉に、新しい学びのスタイルと新しい薬剤師の行動様式を模索している、その現れなのではないかと感じています。

しかし、これだけのサポーターがいるのに、
JJCLIPの命運はコアメンバーの3人に完全に依存しています。
正直申しますと、このうち誰かが欠けたら終わってしまいます。
そこで、まずは「支部」というと語弊があるかもしれませんが、
いくつかのグループを作って、地域で、あるいはネット上で同様の論文抄読会を定期的に開催してもらい、お互いにそれをサポートし合う構想を考えました。
もしそれが軌道に乗れば、私たちコアメンバーが万一欠けることがあってもこの「薬剤師のジャーナルクラブ」という活動は残ります。
もちろんワタクシも青島先生も山本先生も今のところ脱落する予定もつもりもありませんけども(笑)このJJCLIPを通して始まったこの動きは今はとても小さくとも、そのうち転がり続けて大きくなる・・・
とても大事な「スノーボール」だと確信したからこそ
転がり続けるシステムを作る必要性を考えるに至りました。

しかし、システム化するにはある程度のお金が必要です。
現在は3人の趣味みたいなもんですから、全部自腹でやってますし、わざわざ援助してくれる人もいません。
ですがもっと多くの人にスタッフに加わってもらい、組織的に活動することを目指すとなると、さすがに全部自費で手伝ってとは申し上げにくいです。(今はどうしてもそうなってしまいますけどね)
せめて交通費とか、通信費とか、謝礼までは出せなくても経費の補助ぐらいは出したいじゃないですか。

そのため、法人化による組織での継続を考えました。
法人化のメリットとしては、
やはり信用を得て協力を得やすくなることに尽きます。
人を集めることは何より大事ですけど、同時にお金を集めることも大事になってきていることを感じています。法人化により社会的な体裁を整えれば、堂々と会費や寄付を集められます。今のようなただの「サークル」に寄付しようなんて奇特な人はいませんが、法人ならそれも期待できます。

そこで目を付けたのがNPO法人です。
NPO法人は公益活動のための法人でありながら、いわゆる公益法人と違って個人でも設立することができ、条件を満たせば税制上の優遇もあるようです。普通の株式会社より制約はありますが、経営の透明性はNPOの方が当然高いので、寄付などの援助は受けられやすいかと思います。
支持者から集めた年会費や寄付金は、例えば
このたびのJJCLIPシンポジウムのようなイベントの会場費、
スタッフの打ち合わせのための交通費、
外部講師を招聘した際の講演料、
調査研究やその発表のための活動費・・・
こういったものに当て、その資金の流れを公開し、みんなで検証するプロセスを踏み、さらに安心して年会費や寄付金を出していただける、そういった流れを想定しています。
まあ、年会費を集めるにしても、例えば今回みたいなイベントは参加無料にするなど、強制的な負担が増えないようなやり方は考えていますのでご安心を。
基本的には現在の3人の活動の延長ですから、赤字が出ればこれまで通り私たちが負担するだけですし(^^;)

もちろんNPO法人化のデメリットも考えています。
設立には法人登記のための司法書士手数料などでお金がかかることと、後には退けなくなることですかね。
設立費用はとりあえず私たちで出し合おうと覚悟は決めて貯金に励んでいるところですが、
できればもう少し協力者がいて、作業を分担していただけると、前に進み続けられるのではと考えています。

ということで、
先日のJJCLIPシンポジウムに来てくださった方々から数名、強力な協力メンバー(NPO法人化した暁の役員候補ですね)をリクルートさせていただいてるのですが、「我こそは!」と思う方はぜひ名乗りを上げていただきたいと思います。
中心でやるのは難しいという方も、ただ会員になっていただけるだけでも嬉しいです。
どこかでお会いできた時に遠慮なく声をかけてください。

以上、まとめますと、
まだクリアすべき課題もあるので現時点では目標ですけども、
今後 JJCLIPはNPO法人化というのも目指して進んで参りますので
ますますのご支援のほど、どうかよろしくお願いいたします。
皆様からお力を得て、薬剤師のジャーナルクラブは
その枠組みを超えてもっと羽ばたきたいと思っています。
NPO法人化は決して目的ではなく、
私たちはそれにまたがってその先にあるもの・・・
「薬剤師が変われば医療は変わる」
その世界を目指したいのです。


 

EBMって何でしょう?

さて、年末になりました。
今年も多くの方々のおかげで有意義な一年だったと思います。
今年出会った多くの方々に改めて御礼申し上げますとともに
来年訪れるであろう出会いに希望を膨らませたいと思います。

普段言いたいことはツイッターでつぶやいてますんで
最近改めてブログにまとめるような欲求不満も無いので(笑)
すっかりJJCLIP配信や講演の告知ばっかりの更新になっちゃってますが
まあこういう機会に少し書いてみましょうか。

とはいえ、今日の話は先日続けてツイートしたことに関連してですが(^^;)

EBMって何でしょう?
Evidence Based Medicineのことです、と言いたいんじゃありません。
Wikipediaには「治療効果・副作用・予後の臨床結果に基づき医療を行うというもので、専門誌や学会で公表された過去の臨床結果や論文などを広く検索し、時には新たに臨床研究を行うことにより、なるべく客観的な疫学的観察や統計学による治療結果の比較に根拠を求めながら、患者とも共に方針を決めることを心がける。」と書いてありますが、
そんな解説をしたいんでもありません。

先日、一緒にJJCLIP配信をさせていただいている青島周一先生
ご自身のブログに「EBMの思想」と題して非常に興味深い考察を述べておられます。

地域医療の見え方:EBMの思想

ワタクシがEBMに出会ったのはもっと昔、10年ぐらい前なのですが、
最近になってやっと気付いたことを見事に言語化して下さってます。
その慧眼には本当にかなわないなぁ、と思うんですが、
その記事を読んだ感想をいくつかツイートしたところ、
それらをとある方がtogetterにまとめて下さいましたので
それほど興味を持っていただけるなら、
今日という日にもう少しまとめておこうかなと思います。

青島先生はEBMを「思想」という風に表現しましたが、
これはきっととりあえずの言葉であって、
本当に思想にカテゴライズしたわけではないだろうと思っています。
EBMを「主義や思想」にしてしまうと、それは必ず相容れない集団を生みます。
なぜなら、人間は言語で現実を捉えて共有しているために
その現実をシェアできる集団で社会を構成していますが、
言うなればその共有された現実こそが文化であり、
主義や思想であるからです。

もちろんあらゆる主義や思想を寛容に受け止める人が増えれば良いのですが
その点では私はあえて「とりあえずの言葉」を使うなら
「EBMは原理主義でなければならない」と言ってしまいましょう。
EBMの実践において「EBMっぽい実践」なんてのはありませんで、
エビデンスがあるにせよ無いにせよ、エビデンスレベルが高かろうが低かろうが、
結果的にエビデンスに基づいた行動がとれるにせよとれないにせよ、
それらを正しく踏まえた医療を心掛ける以上それは紛れもないEBMだからです。
例えばEBMをよく理解してない人は対立概念にNBM (Narrative Based Medicine)を持ってきたりしますが、
NBMも結局どこにフォーカスするかの言葉の問題であって
「EBMとNBMの融合が大事で・・・」なんて言い出すと
本当に意味不明なトンチンカンなことになりますよね?
だからEBMはピュアなものしかありえないのです。

ただ、EBMを原理主義だとしてしまうと、
それをシェアできない人に対して排他的になってしまいます。
主義思想という共同幻想をシェアできない人とは対立することになります。
ワタクシはEBMをそんな風に持って行きたくないわけですが、
現実的には、既にそうなっている雰囲気もあったりするので、
まあそんな思想、宗教みたいなもんだと捉えられても仕方ないかなぁ、
そこでEBMを否定する人には反論もしていかないといけないかなぁ、
と思いつつ布教活動(笑)みたいなことをしていこうかとも考えています。

じゃあEBMって何でしょうね?
とりあえずは、薬剤師がその殻を破る武器にはなるでしょう。
ただその武器は他人を攻撃するものではなくて、
患者さんや他職種とより良く関わってより良く仕事するためのものです。
それを邪魔している殻・・・知らず知らず作り作られた殻・・・を破るために武器を手にするのです。
青島先生は先に紹介した記事で
「EBMはエビデンスを用いながら人と人をつなぐ架け橋になる、そういう仕方で実践されるべきである」
と主張されましたが、まさにその通りで、
EBMを実践する時にはそこを心掛けなければなりません。

恥ずかしながらワタクシは、
「人を斬るためのEBM」を使ってた人だったんですよね。
「批判的吟味」を文字通り批判的にやっちゃってましたし、
エビデンスが示す医療を行わない人、行われない現実にも
批判的に考えたり主張することもありました。
ですがそうやってEBMを振り回してみたところで、
結局ストレスが溜まるだけだったんですね。
そもそも答えの無い問題にできるだけ正しそうな判断をしていくのがEBMの実践であり、
結局どんな行いも正しいとか正しくないとかなかったんですよ。
明らかに害があったり法的倫理的に問題があるというわけでもない限り、
EBMは正しさを決めるためのものではありません。

だからワタクシがEBMについて主張したいのは以下のことです。
EBMという呼び方にこだわらず、現時点で入手可能な最良の根拠をできるだけ正しく現場に適用していく方法、および経験の不足を補い合えるより良い学習方法についてシステマティックな学びと実践をしていきましょう。
ですがそれを適切に言い表す言葉がまだ見つかりませんので、
とりあえずそれを「EBMの実践」とか「EBMスタイル」とでも呼ばせて下さい。
これはよく考えたら、医療者としてごくごく当たり前の(理想的な)行動様式です。
とすると、特に名付けるまでも無いような気がします。
そう、まさに「息をするように」行えればいいんです。
ただ、正しい呼吸法は何もせずに勝手に身に付くものではありません。

呼吸は誰だってしますよね?
しかし、その呼吸にも作法というものがあります。
武道なり茶道なりやったことある方なら今きっと頷かれてると思いますが
(ちなみにワタクシは大学〜大学院の間ずっと弓道を嗜んでおりました)
正しい呼吸無くして正しい立ち居振る舞いも絶妙な技もありえません。

そうか、EBMは呼吸法だったのか。
医療の道、薬剤師の道に大切な呼吸を
ちょっと横文字で表わしただけだったんですね。

ということで、
年の瀬に徒然なる思いを徒然なるままに書いてみました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。



JUGEMテーマ:

与えることと受け取ること

今回も、ツイッターで連続ツイートしたことのまとめです。
手抜きですいませんなぁ(;´Д`)

それにしても、
与えることや受け取ることはどっちも意外と難しいものなんだよなぁ。
せっかくの好意を拒否られたり、
つい遠慮したせいでチャンスを逃したり・・・
なんでそんなことが起こるのかと考えたら、
重要なキーワードとして「自己肯定感」が浮かんだ。

自己肯定感というのは、自信とはちょっとニュアンスが違う。
現状の自分を認め許す気持ち、
自分のことを愛し愛されることを受け入れること、
自分には生きている価値がある、存在している価値があるといった感覚だ。

そして人は自分のあるべき位置を自己肯定感から意識するようだ。
つまり自己肯定感の低い、無価値感を抱えてるような人は
自分のポジションを低く見積もるわけだが、
人は自分のポジションに見合ったものしか受け取れないものだ。

それはなぜかというと、
人は自分を過大に評価した価値を他人から与えられると、
罪悪感が芽生えるからだ。
そして
「こんなものを自分にくれるなんて何か裏があるに違いない、
 さもなくば後で何かお返しを要求されるに違いない」
と考える。

もちろん人付き合いの基本としては、
どんどん与えてどんどん受け取る方が良いはずだ。
そして与えるほうと受け取るほうのどちらが幸せかと考えると、
それって実は与える方で、
与える側が幸せになるか傷付くかは受け取る側が握っているのだ。
これは彼女にプレゼントする男を考えたら分かりやすいだろう。

ということで、
受け取ることに抵抗がある場合は
相手を幸せにしてやるつもりで受け取ってあげればよいということになる。
そうすると、得をするのは自分だけではないということになり、
少しは罪悪感も減って受け取りやすくなるだろう。

一方で与える側から考えれば、
相手に何かをしてあげようとか思ったら、
相手の罪悪感をできるだけつつかないやり方が必要になる。
よく「初めてのデートはおごりか割り勘か」みたいな論争もあるが、
それは相手の罪悪感によるということだ。

という感じで、
与えるのも受け取るのも、考えてみると結構深いんですね。
そういうことをちょっとした空き時間に考えたのでつぶやいてみました。
みなさんもどのようにしてたくさん与え、たくさん受け取るか、
何かの機会にぜひ考えてみてください。

(おまけ)
まあ要するに女性を食事に誘おうと思ったら、
罪悪感を起こさせない方がいいってことね。
例えば「おごるから○○に一緒に行こうよ」ではなく
「○○に行きたいんだけど良かったら一緒にどうかな、おごりでもいいけど」ぐらいで。




お金の正体

ツイッターでつぶいたら反響が良かったので再編して転載。
さて皆さん、
お札(紙幣)はなぜ「日本銀行券」というかご存知だろうか? 
それは「銀行の銀行」たる日本銀行が
銀行から何か価値あるものを預かった際に
それと引き換えにお札を発行するからだ。

要するに、お札とは日銀の借用書だったのだ。
その証拠に紙幣発行残高は日銀の財務諸表では負債に計上されている。
ということは、
お札は日銀が預かっている何か価値あるものと繋がっており、
そのことを裏付けに別の何かと交換できるから利用価値があるのである。

例えばAさんがBさんに金塊を貸したとする。
Bさんが書いた借用書はBさんから金塊を返してもらう権利そのものである。
そこでAさんはCさんと合意の上でこの借用書と自動車を交換した。
この取引が成り立つのは、
Bさんの借用書は見た目はただの紙切れでも、
それはAさんの貸した金塊と繋がっていて、
Cさんはこの借用書を元にBさんから金塊を取り立てることも
また他の誰かのモノやサービスと交換することもできるからだ。

ということは、
その価値の繋がりに疑いが生じた途端、
紙幣というものはただの紙切れに戻る。

言い換えれば、
「お金に実体は無い」、「お金とは信用そのもの」。

そう考えると、現金そのものに価値があると思い込んで
現金を囲い込み貯め込むことがいかに滑稽か分かるだろう。
そういうことをする人を「守銭奴」と呼ぶ。
本当のお金は電子マネーやクレジットカードのように目に見えない。
そして信用があるから決済できる。
やはりお金に実体は無く、信用そのものなのだ。
そう思うと、目に見えない信用で繋がっている経済って
とても不思議で面白いものだと思えないだろうか。

つまり、お金はペンやハサミと同じく「道具」なのである。
(価値を計るという点では物差しに近いかもしれない)
道具に善も悪もない。ただ使う人の心掛け次第だ。
信用を集めることでお金を集めることを考え、
上手く使いこなして豊かに幸せになりたいものだ。

・・・とまあ色々偉そうに言いましたけど、
その前に今月どう乗り切るかが問題なんですけどね(^^;)

ダメ社員と捨てられた女

本日の『クローズアップ現代』であったこの下りなんですが。

仕事できない人がクビにされた会社を
会話の録音をネタにユスるとか
「ちょっとそれ問題違うくね?」と言いたくなったんです。

確かにその会社はいわゆるブラック企業なんだろうけど、
そりゃ解雇が規制されてるんだったら
要らない社員には嫌がらせでもして辞めてもらうしかないわなぁ、
と少し経営者目線で見てしまった。

ダメ社員が
「労働基準法を守って下さいよ!」
とか言っても、
それってダメ社員を居候させるための法律じゃないし。

「労働者は使い捨ての商品か?」という声を聞く。

うん、その通りでしょ。
マルクスの時代からそうだ。
だからこそ会社や資格なんかに甘えずに
自分で道を切り開かねばならないんじゃないのかな。
それこそ自分が会社を踏み台にするぐらいしたたかでありたい。

自分と会社は共同体っていうのは昭和的価値観なんだろね。
それはおそらくムラ社会で歴史を紡いできた
日本人の感覚にはフィットするのだろうが、
残念ながらそれはもう限界っぽい。
その価値観を捨てれば、むしろ
もう個人が会社に忠義を捧げなくてもいいわけだし
会社が社員の面倒を見ることも要らないでしょう。
お互いに自立した関係で動けばいいと思う。
だから解雇規制なんて思いっきり緩和して
社員は理由の如何にかかわらずクビ切っても賃下げしてもOK、
年金も保険も会社は負担する必要なしとする。
その代わり破綻しそうな企業を政府は一切救済しないし、
セーフティネットはしっかり整備しておく。
これって北欧の国みたいで良いと思うんですけどね。

ということで元の社員に話を戻せば、
あれはフラレた女がタダで捨てられたくなくて
付き合ってた時のネタで元カレをゆすって
見返りを要求したりヨリを戻そうとしてるように見えて
とても大人のサラリーマンがすることとは思えなかった次第。




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