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【書評】『精神科病院で人生を終えるということ』

皆さんにとって、「精神科病院」それも精神科病棟を持っている大学病院や総合病院とかではなくて、いわゆる「単科」の精神科病院だとか「精神病院」とか言われてきた病院のことについてどのようなイメージを持たれているだろうか。

私は学生時代のアルバイトからずっと精神科病院で働いてきたので、イメージが上書きされてしまってほとんど覚えていないんだけど、子供の頃に、墓地の裏にひっそりと建っている窓には全て鉄格子という異様な雰囲気の病院を見つけて

「あれは何?」

と母に聞いたら

「あれはね、キチガイを閉じ込めとくとこよ。アンタも人の言うこと聞かんとわけわからんことばかりしょうると、あがなとこにブチ込むけえね」(広島弁)

と言われて、ちょっと怖いなと思った記憶なら、ある。

しかし、そのように人の目から遠ざけられて、まるで最初から無かったかのようにされて、近付くことも忌避されていたところにも、当然ながら多くの人の人生があり、ドラマがあったのだ。

現代ではうつ病や適応障害などが注目され、精神科医療も「隔離」から「癒し」の場へとシフトしてきたわけだが、かつて社会から「隔離」されてきた人たちがいなくなったわけでは決してない。

今も日本中の精神科病院でひっそりと生き、そして死んでいるのである。

 

本書は、そのような方々にスポットを当て、様々な葛藤や矛盾や答えのない問いに苦悩する若き精神科医の手記である。

 

という感じで偉そうに書いたら怒られるかもしれませんけどね(^^;)

ありがたいことに著者の東徹先生から献本と言ってよいのかご著書を送ってきてくださったので、簡単に感想を書いておきます。

書評とするからには、極力「くもりなきまなこ」で読んでみたつもりです。

 

さて、本書は基本的には日経メディカルで連載されていたコラムを加筆して書籍としたものだが、最初に手に取ったときの重厚さとは裏腹に、読んでみると楽に読める。

疾患や治療の説明が平易な言葉で丁寧になされているため、おそらく医療関係者でなくても読める内容になっている。

精神科医療をある程度理解している人であれば、そこらへんは飛ばして読めるし、1話ずつの構成になっているのでスキマ時間などに少しずつ読み進められるだろう。

 

本書のサブタイトル『―その死に誰が寄り添うか』は、本書の中で一貫したテーマである。

あなたは、自分の今際の際には誰が寄り添ってくれるか、考えたことがあるだろうか。

普通は家族であろうが、そうではない人が、精神科病院に長期入院しているケースでは結構多い。

本人の病気に振り回されて、家族も疲弊していることはよくあることで、そこに渦巻く感情が、「その死に誰が寄り添うか」を複雑にしていることがある。

 

(引用)

 本書のタイトルにある「その死に誰が寄り添うか」。家族が寄り添えない場合も多くご紹介してきました。細かい事情は様々ですが、病状の重さに疲れ果てて家族の心が離れていってしまったケースも多いのです。一般的に「家族のようなケア」という言葉は良い意味で使われます。家族なら親身になるのが当然だ、という発想ですね。しかし、時として、いや往々にして、家族だからこそ感情がもつれてしまう、冷静でいられなくなることもあると思うのです。愛憎は紙一重です。

 

確かに一切連絡を絶って関わろうとしない家族もいる。

個人的に「酷いなぁ」と思ってしまう家族もある。

しかし、事情を聞けば責められないケースも多いのだ。

それに、一時的に本人の病気と感情に振り回されただけで、実際にはその後もずっと揺れ動いている家族のほうが多数派である。

また、そのような家族の気持ちは時と場合によって揺れ動くことも描かれている。

例えば、延命治療を行うか、どの程度行うかということについて、引用してみよう。

 

(引用)

 やはり、家族も常に葛藤があるのだと思います。なるべく長生きしてほしい。けれど、そこまでしないといけないだろうか。それと、どこまでも世話を続けることにも限界を感じる。かといって、見捨てているようでそれはそれで心苦しい。

(中略)そしてそれは、家族だけでなく、本人の意思でも同じことだと思います。元気な時に思っていることと、体が弱ってから思うことは変わることがあるのは当然です。

(中略) もう少し付け足せば、元気な時に「延命治療はいらない」という明確な意思を、例えば書面に残して表明していたとしても、意識が混濁していたり、十分に意思表示ができなくなった時に、その思いは本当に変わらないのかという疑問もあります。意思表示ができないのと、感情がないのとは同じではありませんからね。

 

家族や、本人の判断は時間とともに揺れ動く。

そして、治療の判断をした医師も、揺れ動くのである。

 

(引用)

 胃瘻造設をした直後の数日は、もちろん「胃瘻を造設して良かった」と感じます。比較的安全に栄養を投与できるようになったわけですから。逆に言えばそう思うから胃瘻にしたわけです。

 しかし、1ヶ月後には少し印象が変わります。「食事も取れないで寝たきりのこの人の人生は、本当に意義があるのだろうか。胃瘻は無駄なことをしたのではないだろうか」。

(中略)しかし、3ヶ月後に今度は、「いや、これだけの期間、命を永らえることができたのだから、これは有意義なことだろう」と思えてきます。ところが、また1年後には、「生きる苦痛をただ延ばしているだけではないだろうか」と思えてきます。そして3年後には、「これだけの時間、生きることができたのが無駄なはずがない。無駄な命などない」などと思うのです。

 

そう、本書で展開される話は結局、精神科病院とはいえ、人がどのように亡くなるのかということにまつわる葛藤のストーリーだったのである。

ではなぜそれがことさら精神科病院ということがさも特殊なものとして取り上げられなければならないのか。

 

(引用)

院内には、簡素ではありますが葬儀ができる場所があります。中村さんもそこで葬儀を行いました。家族がいませんでしたから、参列者は病院のスタッフ、そして後見人だけでした。

(中略)そこへ、師長が数枚の写真を持ってきました。それは中村さんが若い頃の写真でした。

(中略)そこには、元気に笑っている中村さんの姿がありました。病院で開いた運動会の時の一場面、一泊旅行に行った時の様子などでした。長期入院の方も多く、運動会や旅行など、リハビリの一環としてそのような行事を病院でよく開いています。それらは形を変えながらも今も行っています。そして、その中村さんは、僕が担当してからの、寝たきりで話もほとんど通じなかった中村さんとは全く別人のようでした。

(中略)残念ながら、中村さんは社会復帰ができるほどには回復できませんでした。だから、ずっと入院していたのです。そう考えるのが当然です。

 しかし、写真を見ていて思うのは、本当にそうだったのだろうか、という疑問です。こんなに元気に笑っている人が、泊りがけで旅行に行ける人が、本当に退院できなかったのだろうか。病院ではなく、社会の中で暮らせなかったのだろうか。

(中略)写真を見ながら中村さんが社会に戻れなかった50年間に思いを馳せました。なんという長さだろうか、と気が遠くなる思いでした。

(注:本書における登場人物の名前は全て仮名です)

 

50年間!と驚かれた人もいるかもしれないが、私も自分の歳より入院期間が長い人と話したことがあって、その人に昔の写真を見せてもらったことがある。本当に衝撃的だった。と同時に、精神科医療が背負うものの重さ、業の深さを感じたものである。

 

「社会的入院」ということが語られることがある。

あまりに長い入院生活によって社会で生活する能力を失ってしまったために余儀なくされている入院といったニュアンスで使われているが、それにはもう一つ別の側面があって、社会のどこにも居場所がないために余儀なくされている入院といった意味もある。

精神障害者の何年、何十年に及ぶ長期入院は、あたかも精神科病院の問題であるかのように語られることがあるが、長期入院はあくまで「社会の要請に対応してきた結果」であって、重度の精神疾患を抱える人があなたの職場の同僚に、あるいは友人に、または隣人に、そして同居家族にいてもいいのなら、長期入院なんてそもそもありえないのだ。

 

ところが、実際には精神障害者への差別や偏見は、この日本の社会には厳然として存在する。

本書の中でも著者が何度も憤っておられるが、一般の病院が精神疾患(を持つ人の身体疾患の治療)を受け入れてくれないから、精神科に「身体合併症病棟」なるものが必要になるのである。

これはまさに差別や偏見が医療従事者の中にも根強いことの象徴かもしれない。

医療において患者の「たらい回し」という悪い意味の表現があるが、精神科病院と一般科病院との間には「キャッチボール」とでも言うべき状況も時に見られる。精神科としては「これぐらいの精神状態なら一般病棟でも大丈夫」と思って患者を搬送しても、十分に身体的治療を終えないうちに「もう大したことないからそちらで診てください」と送り返される。最悪断られる。一般科病院では何でもない病状であっても、設備もマンパワーも一般科病院と比べると見劣りする精神科病院でフォローできるものには限りがある。だからまたすぐに転院を要請することになる。でもちょっと不穏状態を呈しただけで送り返されてくる。結局多少無理しながら精神科でも身体疾患を治療しなければならない状況が生まれてきている。

(まあ薬剤師としてはそのせいで国試以来その文字すら見たこともないような不得手な薬をちゃんと効果や副作用をモニタリングして適切な使用方法を主治医に助言できるだろうかという不安とか突然亡くなられて高額な在庫を抱える恐怖とかでついつい憤ってしまうんだけど(^^;)

このような現状のなかで、精神科医療を担っている者がどのように悩み、苦しみ、そしてどのように希望を見出そうとしているか、これは本書を読み進めていくと具体的なエピソードとして明らかになるだろう。

 

しかし、だからといって一般病院や社会を責めることもできない。

そもそも、私たちは誰も「自分は全く差別や偏見感情を持っていない」と言うことはできないからだ。

これについては、本書の締めくくりとして、元のコラムにはなく加筆した章として「相模原障害者施設殺傷事件」を取り上げることで述べられている。

その事件の犯人が精神障害者であると決まったわけではないが、少なくとも措置入院という形で精神科医療が関わった事実はあるわけで、本書で述べられる考察を読むことを通して「精神疾患とは何か」を考えていくと「異常とは何か」に行き当たることにも気付いていただければと思う。

そしてその線引きをしているのは自分なのであって、自分にも差別や偏見の感情があるかもしれないこと、そして必要なのはそのような感情を無かったことにしてしまうのではなく、うまく折り合っていくことではないかということを私は改めて感じるのである。

都合の悪い部分を無かったことにしてしまおうとする態度こそが障害者(=マイノリティと言ってもいいかもしれない)を迫害する空気の源になっているのだから。

 

という風に書いたらなんだか重いように思われるかもしれないが、実際には先に少し引用したように、著者の優しい人柄(かな?実は実際にはお会いしてお話させていただいたことが無いので予想ですが(^^;)がにじみ出ているような優しいタッチの文章なので、表面的にはライトな読み方もできる。ただ、一旦本を閉じて目を閉じて考えてみると、上記のような思いが湧いてきた次第である。

 

そのような内容なので、冒頭に書いたように、一般の人でも精神科医療の闇の部分にちょっと興味がある人が読んでみるのはおすすめできるし、これはもしかしたら精神科病院における新人教育にも使える内容かもしれないと思っている。

少なくとも、私のような精神科薬剤師には間違いなく読むことをオススメしたい。

薬剤師がつい忘れがちになる精神科医や患者や家族の悩みについて触れることができるだろう。

 

唯一気になった改善点を申し上げるとしたら、事実に基づいているとはいえ、全て架空のエピソードとして書かれていること、そしてその点を度々強調されていること、そしてあらぬリスクを避けるためと拝察いたしますが自己弁護が多いこと、これらがやはり本書への引き込みや感情移入を阻害しているように思われ(まあ元々日経メディカルという医療者向けメディアでの連載ということを考えると、そういう読み方は著者は期待してなかったかもしれないが、一般の人に読んで欲しかったら必要なことかもしれない)、ルポルタージュのようなものとして読み進めるとくすぶったような微妙な感じがあるので、このように一冊の書籍としてまとめるのであれば、もういっそのこと「若き精神科医の苦悩のドラマ」として小説にでもしてしまったほうが良かったかもしれない。

いや、これはイチ読者の勝手な意見ですけど、今からでも脚本にしてテレビドラマ化(あるいは自主制作してYouTube?)を目指してみたらいいんじゃないですかね?結構強いメッセージがあるように思いますけどいかがでしょう。

 

精神疾患とは何か。

精神障害者が受ける処遇は誰が望んだものなのか。

そしていつか必ず誰にでも訪れる死には誰が寄り添うか。

目を背けるのでも無かったことにするのでもなく、

本書を手に、一度は身近なものとして考える機会を持ってみてはいかがでしょうか。

 

 

 

JUGEMテーマ:精神科


JJCLIPのNPO法人化について

今年6月12日につくば市で開催させていただいた
「薬剤師のジャーナルクラブJJCLIPシンポジウム2015」ですが、
募集当時は強気な発言ながらも心の中は不安だった私の心配をよそに
なんと12名もの参加者が来てくださいました!
決して安くはない参加費を設定させていただいたのですが、
ちょうど会場費などの諸経費をみんなで出し合う感じになったので
運営面では大成功だったと言えます。
ではその中身は・・・
これも様々な喜びの声をいただき、
まだまだ改善の余地や当日の不手際の反省もありますが、
ディスカッションはとても盛り上がりましたし、
大変盛況のうちに無事終えることができたとは言えると思います。

さて、その中でお話しして、昨日のJJCLIP配信の中でも触れました、
「NPO法人化」について
皆様からのご協力をいただくためにも改めてこちらでも説明しておこうと思います。

昨日の配信、論文は読まなかったのですが、それでも90分に渡って常時40人以上の方々にご視聴いただきました。
これは本当に嬉しいことです。
論文の読み方使い方の勉強会というだけの価値を超えて、こんなに多くの方が、「JJCLIP」を合い言葉に、新しい学びのスタイルと新しい薬剤師の行動様式を模索している、その現れなのではないかと感じています。

しかし、これだけのサポーターがいるのに、
JJCLIPの命運はコアメンバーの3人に完全に依存しています。
正直申しますと、このうち誰かが欠けたら終わってしまいます。
そこで、まずは「支部」というと語弊があるかもしれませんが、
いくつかのグループを作って、地域で、あるいはネット上で同様の論文抄読会を定期的に開催してもらい、お互いにそれをサポートし合う構想を考えました。
もしそれが軌道に乗れば、私たちコアメンバーが万一欠けることがあってもこの「薬剤師のジャーナルクラブ」という活動は残ります。
もちろんワタクシも青島先生も山本先生も今のところ脱落する予定もつもりもありませんけども(笑)このJJCLIPを通して始まったこの動きは今はとても小さくとも、そのうち転がり続けて大きくなる・・・
とても大事な「スノーボール」だと確信したからこそ
転がり続けるシステムを作る必要性を考えるに至りました。

しかし、システム化するにはある程度のお金が必要です。
現在は3人の趣味みたいなもんですから、全部自腹でやってますし、わざわざ援助してくれる人もいません。
ですがもっと多くの人にスタッフに加わってもらい、組織的に活動することを目指すとなると、さすがに全部自費で手伝ってとは申し上げにくいです。(今はどうしてもそうなってしまいますけどね)
せめて交通費とか、通信費とか、謝礼までは出せなくても経費の補助ぐらいは出したいじゃないですか。

そのため、法人化による組織での継続を考えました。
法人化のメリットとしては、
やはり信用を得て協力を得やすくなることに尽きます。
人を集めることは何より大事ですけど、同時にお金を集めることも大事になってきていることを感じています。法人化により社会的な体裁を整えれば、堂々と会費や寄付を集められます。今のようなただの「サークル」に寄付しようなんて奇特な人はいませんが、法人ならそれも期待できます。

そこで目を付けたのがNPO法人です。
NPO法人は公益活動のための法人でありながら、いわゆる公益法人と違って個人でも設立することができ、条件を満たせば税制上の優遇もあるようです。普通の株式会社より制約はありますが、経営の透明性はNPOの方が当然高いので、寄付などの援助は受けられやすいかと思います。
支持者から集めた年会費や寄付金は、例えば
このたびのJJCLIPシンポジウムのようなイベントの会場費、
スタッフの打ち合わせのための交通費、
外部講師を招聘した際の講演料、
調査研究やその発表のための活動費・・・
こういったものに当て、その資金の流れを公開し、みんなで検証するプロセスを踏み、さらに安心して年会費や寄付金を出していただける、そういった流れを想定しています。
まあ、年会費を集めるにしても、例えば今回みたいなイベントは参加無料にするなど、強制的な負担が増えないようなやり方は考えていますのでご安心を。
基本的には現在の3人の活動の延長ですから、赤字が出ればこれまで通り私たちが負担するだけですし(^^;)

もちろんNPO法人化のデメリットも考えています。
設立には法人登記のための司法書士手数料などでお金がかかることと、後には退けなくなることですかね。
設立費用はとりあえず私たちで出し合おうと覚悟は決めて貯金に励んでいるところですが、
できればもう少し協力者がいて、作業を分担していただけると、前に進み続けられるのではと考えています。

ということで、
先日のJJCLIPシンポジウムに来てくださった方々から数名、強力な協力メンバー(NPO法人化した暁の役員候補ですね)をリクルートさせていただいてるのですが、「我こそは!」と思う方はぜひ名乗りを上げていただきたいと思います。
中心でやるのは難しいという方も、ただ会員になっていただけるだけでも嬉しいです。
どこかでお会いできた時に遠慮なく声をかけてください。

以上、まとめますと、
まだクリアすべき課題もあるので現時点では目標ですけども、
今後 JJCLIPはNPO法人化というのも目指して進んで参りますので
ますますのご支援のほど、どうかよろしくお願いいたします。
皆様からお力を得て、薬剤師のジャーナルクラブは
その枠組みを超えてもっと羽ばたきたいと思っています。
NPO法人化は決して目的ではなく、
私たちはそれにまたがってその先にあるもの・・・
「薬剤師が変われば医療は変わる」
その世界を目指したいのです。


 

EBMって何でしょう?

さて、年末になりました。
今年も多くの方々のおかげで有意義な一年だったと思います。
今年出会った多くの方々に改めて御礼申し上げますとともに
来年訪れるであろう出会いに希望を膨らませたいと思います。

普段言いたいことはツイッターでつぶやいてますんで
最近改めてブログにまとめるような欲求不満も無いので(笑)
すっかりJJCLIP配信や講演の告知ばっかりの更新になっちゃってますが
まあこういう機会に少し書いてみましょうか。

とはいえ、今日の話は先日続けてツイートしたことに関連してですが(^^;)

EBMって何でしょう?
Evidence Based Medicineのことです、と言いたいんじゃありません。
Wikipediaには「治療効果・副作用・予後の臨床結果に基づき医療を行うというもので、専門誌や学会で公表された過去の臨床結果や論文などを広く検索し、時には新たに臨床研究を行うことにより、なるべく客観的な疫学的観察や統計学による治療結果の比較に根拠を求めながら、患者とも共に方針を決めることを心がける。」と書いてありますが、
そんな解説をしたいんでもありません。

先日、一緒にJJCLIP配信をさせていただいている青島周一先生
ご自身のブログに「EBMの思想」と題して非常に興味深い考察を述べておられます。

地域医療の見え方:EBMの思想

ワタクシがEBMに出会ったのはもっと昔、10年ぐらい前なのですが、
最近になってやっと気付いたことを見事に言語化して下さってます。
その慧眼には本当にかなわないなぁ、と思うんですが、
その記事を読んだ感想をいくつかツイートしたところ、
それらをとある方がtogetterにまとめて下さいましたので
それほど興味を持っていただけるなら、
今日という日にもう少しまとめておこうかなと思います。

青島先生はEBMを「思想」という風に表現しましたが、
これはきっととりあえずの言葉であって、
本当に思想にカテゴライズしたわけではないだろうと思っています。
EBMを「主義や思想」にしてしまうと、それは必ず相容れない集団を生みます。
なぜなら、人間は言語で現実を捉えて共有しているために
その現実をシェアできる集団で社会を構成していますが、
言うなればその共有された現実こそが文化であり、
主義や思想であるからです。

もちろんあらゆる主義や思想を寛容に受け止める人が増えれば良いのですが
その点では私はあえて「とりあえずの言葉」を使うなら
「EBMは原理主義でなければならない」と言ってしまいましょう。
EBMの実践において「EBMっぽい実践」なんてのはありませんで、
エビデンスがあるにせよ無いにせよ、エビデンスレベルが高かろうが低かろうが、
結果的にエビデンスに基づいた行動がとれるにせよとれないにせよ、
それらを正しく踏まえた医療を心掛ける以上それは紛れもないEBMだからです。
例えばEBMをよく理解してない人は対立概念にNBM (Narrative Based Medicine)を持ってきたりしますが、
NBMも結局どこにフォーカスするかの言葉の問題であって
「EBMとNBMの融合が大事で・・・」なんて言い出すと
本当に意味不明なトンチンカンなことになりますよね?
だからEBMはピュアなものしかありえないのです。

ただ、EBMを原理主義だとしてしまうと、
それをシェアできない人に対して排他的になってしまいます。
主義思想という共同幻想をシェアできない人とは対立することになります。
ワタクシはEBMをそんな風に持って行きたくないわけですが、
現実的には、既にそうなっている雰囲気もあったりするので、
まあそんな思想、宗教みたいなもんだと捉えられても仕方ないかなぁ、
そこでEBMを否定する人には反論もしていかないといけないかなぁ、
と思いつつ布教活動(笑)みたいなことをしていこうかとも考えています。

じゃあEBMって何でしょうね?
とりあえずは、薬剤師がその殻を破る武器にはなるでしょう。
ただその武器は他人を攻撃するものではなくて、
患者さんや他職種とより良く関わってより良く仕事するためのものです。
それを邪魔している殻・・・知らず知らず作り作られた殻・・・を破るために武器を手にするのです。
青島先生は先に紹介した記事で
「EBMはエビデンスを用いながら人と人をつなぐ架け橋になる、そういう仕方で実践されるべきである」
と主張されましたが、まさにその通りで、
EBMを実践する時にはそこを心掛けなければなりません。

恥ずかしながらワタクシは、
「人を斬るためのEBM」を使ってた人だったんですよね。
「批判的吟味」を文字通り批判的にやっちゃってましたし、
エビデンスが示す医療を行わない人、行われない現実にも
批判的に考えたり主張することもありました。
ですがそうやってEBMを振り回してみたところで、
結局ストレスが溜まるだけだったんですね。
そもそも答えの無い問題にできるだけ正しそうな判断をしていくのがEBMの実践であり、
結局どんな行いも正しいとか正しくないとかなかったんですよ。
明らかに害があったり法的倫理的に問題があるというわけでもない限り、
EBMは正しさを決めるためのものではありません。

だからワタクシがEBMについて主張したいのは以下のことです。
EBMという呼び方にこだわらず、現時点で入手可能な最良の根拠をできるだけ正しく現場に適用していく方法、および経験の不足を補い合えるより良い学習方法についてシステマティックな学びと実践をしていきましょう。
ですがそれを適切に言い表す言葉がまだ見つかりませんので、
とりあえずそれを「EBMの実践」とか「EBMスタイル」とでも呼ばせて下さい。
これはよく考えたら、医療者としてごくごく当たり前の(理想的な)行動様式です。
とすると、特に名付けるまでも無いような気がします。
そう、まさに「息をするように」行えればいいんです。
ただ、正しい呼吸法は何もせずに勝手に身に付くものではありません。

呼吸は誰だってしますよね?
しかし、その呼吸にも作法というものがあります。
武道なり茶道なりやったことある方なら今きっと頷かれてると思いますが
(ちなみにワタクシは大学〜大学院の間ずっと弓道を嗜んでおりました)
正しい呼吸無くして正しい立ち居振る舞いも絶妙な技もありえません。

そうか、EBMは呼吸法だったのか。
医療の道、薬剤師の道に大切な呼吸を
ちょっと横文字で表わしただけだったんですね。

ということで、
年の瀬に徒然なる思いを徒然なるままに書いてみました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。



JUGEMテーマ:

与えることと受け取ること

今回も、ツイッターで連続ツイートしたことのまとめです。
手抜きですいませんなぁ(;´Д`)

それにしても、
与えることや受け取ることはどっちも意外と難しいものなんだよなぁ。
せっかくの好意を拒否られたり、
つい遠慮したせいでチャンスを逃したり・・・
なんでそんなことが起こるのかと考えたら、
重要なキーワードとして「自己肯定感」が浮かんだ。

自己肯定感というのは、自信とはちょっとニュアンスが違う。
現状の自分を認め許す気持ち、
自分のことを愛し愛されることを受け入れること、
自分には生きている価値がある、存在している価値があるといった感覚だ。

そして人は自分のあるべき位置を自己肯定感から意識するようだ。
つまり自己肯定感の低い、無価値感を抱えてるような人は
自分のポジションを低く見積もるわけだが、
人は自分のポジションに見合ったものしか受け取れないものだ。

それはなぜかというと、
人は自分を過大に評価した価値を他人から与えられると、
罪悪感が芽生えるからだ。
そして
「こんなものを自分にくれるなんて何か裏があるに違いない、
 さもなくば後で何かお返しを要求されるに違いない」
と考える。

もちろん人付き合いの基本としては、
どんどん与えてどんどん受け取る方が良いはずだ。
そして与えるほうと受け取るほうのどちらが幸せかと考えると、
それって実は与える方で、
与える側が幸せになるか傷付くかは受け取る側が握っているのだ。
これは彼女にプレゼントする男を考えたら分かりやすいだろう。

ということで、
受け取ることに抵抗がある場合は
相手を幸せにしてやるつもりで受け取ってあげればよいということになる。
そうすると、得をするのは自分だけではないということになり、
少しは罪悪感も減って受け取りやすくなるだろう。

一方で与える側から考えれば、
相手に何かをしてあげようとか思ったら、
相手の罪悪感をできるだけつつかないやり方が必要になる。
よく「初めてのデートはおごりか割り勘か」みたいな論争もあるが、
それは相手の罪悪感によるということだ。

という感じで、
与えるのも受け取るのも、考えてみると結構深いんですね。
そういうことをちょっとした空き時間に考えたのでつぶやいてみました。
みなさんもどのようにしてたくさん与え、たくさん受け取るか、
何かの機会にぜひ考えてみてください。

(おまけ)
まあ要するに女性を食事に誘おうと思ったら、
罪悪感を起こさせない方がいいってことね。
例えば「おごるから○○に一緒に行こうよ」ではなく
「○○に行きたいんだけど良かったら一緒にどうかな、おごりでもいいけど」ぐらいで。




お金の正体

ツイッターでつぶいたら反響が良かったので再編して転載。
さて皆さん、
お札(紙幣)はなぜ「日本銀行券」というかご存知だろうか? 
それは「銀行の銀行」たる日本銀行が
銀行から何か価値あるものを預かった際に
それと引き換えにお札を発行するからだ。

要するに、お札とは日銀の借用書だったのだ。
その証拠に紙幣発行残高は日銀の財務諸表では負債に計上されている。
ということは、
お札は日銀が預かっている何か価値あるものと繋がっており、
そのことを裏付けに別の何かと交換できるから利用価値があるのである。

例えばAさんがBさんに金塊を貸したとする。
Bさんが書いた借用書はBさんから金塊を返してもらう権利そのものである。
そこでAさんはCさんと合意の上でこの借用書と自動車を交換した。
この取引が成り立つのは、
Bさんの借用書は見た目はただの紙切れでも、
それはAさんの貸した金塊と繋がっていて、
Cさんはこの借用書を元にBさんから金塊を取り立てることも
また他の誰かのモノやサービスと交換することもできるからだ。

ということは、
その価値の繋がりに疑いが生じた途端、
紙幣というものはただの紙切れに戻る。

言い換えれば、
「お金に実体は無い」、「お金とは信用そのもの」。

そう考えると、現金そのものに価値があると思い込んで
現金を囲い込み貯め込むことがいかに滑稽か分かるだろう。
そういうことをする人を「守銭奴」と呼ぶ。
本当のお金は電子マネーやクレジットカードのように目に見えない。
そして信用があるから決済できる。
やはりお金に実体は無く、信用そのものなのだ。
そう思うと、目に見えない信用で繋がっている経済って
とても不思議で面白いものだと思えないだろうか。

つまり、お金はペンやハサミと同じく「道具」なのである。
(価値を計るという点では物差しに近いかもしれない)
道具に善も悪もない。ただ使う人の心掛け次第だ。
信用を集めることでお金を集めることを考え、
上手く使いこなして豊かに幸せになりたいものだ。

・・・とまあ色々偉そうに言いましたけど、
その前に今月どう乗り切るかが問題なんですけどね(^^;)

ダメ社員と捨てられた女

本日の『クローズアップ現代』であったこの下りなんですが。

仕事できない人がクビにされた会社を
会話の録音をネタにユスるとか
「ちょっとそれ問題違うくね?」と言いたくなったんです。

確かにその会社はいわゆるブラック企業なんだろうけど、
そりゃ解雇が規制されてるんだったら
要らない社員には嫌がらせでもして辞めてもらうしかないわなぁ、
と少し経営者目線で見てしまった。

ダメ社員が
「労働基準法を守って下さいよ!」
とか言っても、
それってダメ社員を居候させるための法律じゃないし。

「労働者は使い捨ての商品か?」という声を聞く。

うん、その通りでしょ。
マルクスの時代からそうだ。
だからこそ会社や資格なんかに甘えずに
自分で道を切り開かねばならないんじゃないのかな。
それこそ自分が会社を踏み台にするぐらいしたたかでありたい。

自分と会社は共同体っていうのは昭和的価値観なんだろね。
それはおそらくムラ社会で歴史を紡いできた
日本人の感覚にはフィットするのだろうが、
残念ながらそれはもう限界っぽい。
その価値観を捨てれば、むしろ
もう個人が会社に忠義を捧げなくてもいいわけだし
会社が社員の面倒を見ることも要らないでしょう。
お互いに自立した関係で動けばいいと思う。
だから解雇規制なんて思いっきり緩和して
社員は理由の如何にかかわらずクビ切っても賃下げしてもOK、
年金も保険も会社は負担する必要なしとする。
その代わり破綻しそうな企業を政府は一切救済しないし、
セーフティネットはしっかり整備しておく。
これって北欧の国みたいで良いと思うんですけどね。

ということで元の社員に話を戻せば、
あれはフラレた女がタダで捨てられたくなくて
付き合ってた時のネタで元カレをゆすって
見返りを要求したりヨリを戻そうとしてるように見えて
とても大人のサラリーマンがすることとは思えなかった次第。




いつかは・・・?

最近Facebookによく出る広告で

「毎月5万円積み立てて1億円貯めよう」

みたいなのが目に付くんだが、
3級ですけど、一応FPの資格持つ立場からちょっと考察してみたら
別にその会社は詐欺とかではないんだろうけど
結構ツッコミどころ満載なのでブログの記事にしてみたい。

まず、普通に毎月5万円で1億貯めるとすると
まあ銀行とかで貯めたら166年ほどかかるわけなんだけど
それを30年でつくりましょう、というファンド(投資信託)の話。

とりあえずその宣伝のロジックとしては、

ゆとりある老後を送るためには1億円が必要である。
(月37万円×25年=約1億1千万円)
毎月5万円を複利を使って1億円に育てるには年利10%以上必要。
海外のヘッジファンドなら運用益第100位でも年利16%。
販売会社を介さず低コストでそのようなファンドを紹介&助言。
毎月5万円の積み立てで1億円は貯められる!

といったところなのだが、
まあこれをただ胡散臭いと思うだけで終わる人は思考が停止した人といえよう。
そういう人はリスクを遠ざけているつもりでチャンスも遠ざけていて
「何もしないリスク」に気が付かず経済の波に翻弄されるのだ。
なんて余談は置いといて、
ワタクシは上記のロジック自体はその通りだと思うし、
根拠が示されていることから、おそらく数字も正しいだろう。

だがワタクシはこれを買いはしないし友人にも買って欲しくない。
そう思う理由をこれから述べよう。

まず最初の前提だが、
ホントに老後に1億円も必要なのであろうか?
月に36.6万円というのは生命保険文化センターが行った調査結果だが、
これは「ゆとりある老後生活費(夫婦分)」であって
「一人当たり最低日常生活費」ではない。
夫婦での最低日常生活費は22.3万円だそうだし、
上手にやりくりすればこの金額でもたまの贅沢はできるだろう。
で、そこを年金がどれぐらいカバーするだろうか。
これはケースバイケースになるだろうが、
おそらく夫婦とも会社勤めがそれなりに長かった世帯なら×2、
まあ奥さんがずっと旦那の扶養に入ってたようなケースでも
男性の平均受給額は19万円ぐらいあるようだから
それプラス基礎年金で23万円には余裕で届くんじゃないか?

ということは、
本気で老後資金の心配をしなければならない人というのは
◯何らかの理由で無年金の人
◯国民年金しか加入していない人
ぐらいしかいないんじゃないかという気がしてくるが、
(「働いてない人」もそうだが、老後の前に仕事の心配を)
まあでもやっぱり+αの生活を送りたいとか
何らかの理由で1億円貯めたいという人もいるだろうから
とりあえず話を進めてみよう。

年利10%は妥当な数字か?
これは各個人のリスク選好度による。
ただし金利の考え方は物価との差による実質金利が大事だ。
例えば年率1%程度のデフレだと、
仮に銀行の金利がゼロであっても
差し引きで年利1%でお金が増えていくと考えなければならない。
そしてリスクは最も安全かつ流動性の高い資産と考えられる
普通預金の金利との相対で考えた方がいい。
年利10%というのは
普通預金の平均が0.02%だから500倍のリスクがあると考えた方が良い。
(ただし流動性リスクも含むから500倍元本割れしやすいわけではない)
かつて普通預金でも2%の金利が付いてた時代の10%とは100倍違うのだ。
それを選好するかどうかは個人の事情によるが
今の低金利の日本では相当のリスクを取る覚悟が必要に思われる。
ということは、その10%は海外で達成するのが妥当だと思うが、
その場合は「為替変動リスク」を伴うので同じことである。

まあ、そのリスクも全て取れるとしよう。
(というかそんなリスク高いものに大事な老後資金預けたくないが
 そういうツッコミはとりあえず置いといて・・・)
海外のファンドなら利回りが高いところがゴロゴロあるというのは事実だが
「毎年高い運用益を出しているファンドはほとんど無い」のも事実である。
そもそも永続的に稼げる投資先を見抜くのはプロでもできないはずだ。
この辺はまあ、こういった本でも読めば書いてありますが
とりあえず思うのは海外のファンドを買うのも
海外に投資する国内のファンドを買うのも基本的には同じことだし、
仮に国内ではできない方法などで収益を上げてるとこがあるとしたら
それは一考に値するかもしれないが、
何かあっても自分でちゃんと先方に連絡取って何とかできるぐらい
知識や語学力のある人じゃないとやめといた方がいいだろう。

なぜかって?
だって、
今回ネタにしてる会社が30年後も存続してる保証なんてどこにも無いでしょ?
その会社が潰れたら、どうやって資金を引き上げるんでしょうね?
もちろん資金を積み立てたファンドが30年後も存続してる保証も無いけどね。


といった感じで長々と述べてみましたが、まとめますと

1、月5万積立できるぐらい収入があるサラリーマン家庭なら
  年金だけで何とか生きれる。余裕を持たせるにしても1億円も必要無い。
2、そもそも大事な老後資金をそんな桁外れに高リスクで運用すべきではない。
  余裕資金ならそれも一興だが、高収益を永続的に出すファンドは無い。
3、その投資助言会社が30年も存続してるのか?
  もし潰れたらどうやって資金を回収するのか不透明。

こういった理由で、
ワタクシはそのような海外の高利回りファンドをオススメはしません。

もちろんワタクシはその某投資助言会社が詐欺だとか悪徳商法だとか言うつもりはありません。
ただ、そのやり方で成功する人はごく一部の限られた人であろうと考えます。


(余談)
そもそも「貯蓄」で老後に備えようという発想が良くない。
そんなことをすると長生きがリスクになるからだ。
その辺りの具体的解決法についてはまた別の話として語りたいと思います。

医療と市場原理の捉え方

年末に再政権交代が起こった2012年が終わる。
また自民党中心の政治に戻ったことで
医療や介護の方向性が大きく変わることは無いと思われるが
(そこは良くも悪くも官僚主導の政治なので)
それは今の医療や介護の問題も先送りされることを意味しているが、
それでいいのだろうか?

医療の問題について、
web上の様々な情報をこの年末休みにざっと読んでみたが
あまりにも複雑に絡み合っていてまさに魑魅魍魎の世界と言える。
「こうすれば良くなります!」といった解は無いのだろう。
ワタクシもあくまで現場にいる一人のぺーぺー薬剤師であって、
医療行政の実務はよく分からないのに自分の思う政策を述べたところで
そのようなプロの方に反論されるのがオチだろうが、
その反論には一つ論理的な問題点があることは指摘しておきたい。

まず、人間には未来は見通せないのだから、
人間の考える政策は誤るという前提を忘れてはならない。
つまりワタクシがある政策を主張したのに対して
それを誰かが批判して別の政策を主張したとして、
どっちが良いのかはホントのところやってみないと分からないのだ。
(もちろん政治的に実行可能かどうかの議論は別だが)

それは診療報酬の改定のたびに厚労省の誘導する政策のうち
いくつかは裏目に出るのを見れば分かるだろう。
それは優秀な厚労官僚であろうと失敗するものだということである。
もし、逆に厚労官僚がとんでもなくバカなのだとすると、
それは厚労省に医療の舵取りを任せる「社会主義医療」を否定することになるか
そんな彼らに自分の運命を託す医療従事者も国民もバカなのだということになる。

では自由な市場主義を医療に導入することは
それよりも悪いことなのだろうか?

これも悩ましいところだ。
もし「完全な市場原理」が働けば、
理論としては全体としての効用は最大となるはずだ。
しかしそれは要するに参加も退場も自由で
サービス提供者と消費者双方に自発的な選択が可能である必要がある。
だが医療は、例えば救急や精神科がそうであるように
自由とか自発的とは言い難い参加や選択が少なくない。
そのように効率的に市場原理が働かない部分や
第三者に影響する「外部効果」が存在する領域は
政府の関与(=規制)が正当化されるだろう。
(実はこういった主張が本当の「新自由主義」なのだが・・・)

ただ、医療に関してはそのような不具合が多いので
どうしても規制は多くなるし、その分だけ市場原理が歪んでしまう。
その分かりやすい例が米国の医療であろう。
あれはよく「市場原理主義医療の失敗」といった見方がされるが
ワタクシは数々の規制が市場を歪めた結果、
つまり中途半端な市場の害悪であろうと見ている。
その理由は簡単だ、
あれだけ医療費が高いのならそれは供給不足か効率が悪過ぎるわけで
本当に市場原理が働くのなら供給が増えるか効率改善で
サービスの価格は放っといても下がるはずであり、
そうならないのはそれを妨げる規制がある(つまり市場が歪んでる)
さもなくば結局妥当な値段なのだということになるが
さすがにそんなことはない(?)と思う。

で、日本を振り返ればどうか。
これまでの日本の社会主義的な医療は
世界的にはかなり成功してる方だと考えるのは、その通りかもしれない。
しかしそれはもう財源不足に喘いでいてとても持続可能とは思えない。
世界に誇るべき日本の医療が実は
これまでの低負担の医療費は医療従事者の疲弊と安月給、そして
国債発行という将来への負担先送りによって支えられているのだとしたら
今の医療の枠組みが変わることに誰もが感じる不安や痛みは
どうにかして変えていかなければならないと感じる次第。

また、我々は一体誰に向いて仕事をしているのだろうか?
日本のように社会主義的な医療の世界では
患者ではなく厚労省に向いて営業しないとならないのである。
「自分はそんなことしてない」といくら否定しようが
自分がしない分は誰かがそれを代わりにやっているのであり
(自分の所属団体が何の政治的活動もしてないことなんて無いだろう)
全体で見た時には医療従事者が持つリソースの一定部分が
厚労省や政治家への「レントシーキング」に使われているのである。
本来ならそれも患者さんに向けて効率的に働きたいではないか。

とりあえず最後に、
賛否両論あろうがワタクシが望むのは
もっと自由な医療の世界です。
ここについては、また長くなるのでまたの機会に語りましょう。




投票先はどうしよう?

いよいよ衆院選の日がやってきた。

ネットでの選挙運動は事実上禁止されているが、
こういうのを見て、投票先の参考にしてはどうだろうか。

今回の選挙は、投票率が低迷するのではないかと言われている。
3年前に民主党政権の誕生を後押しした無党派層が
政治そのものに失望してしまったからではないかという話もある。
政治に失望しようがすまいが、政治は続いていくし
我々の生活はそこに振り回される。
それに投票に行かないというのは
「既得権を守りたい団体との馴れ合い政治」を信任することになる。
それでいいのならそれも個人の自由だが、
そうでないのならせめてそれにはNOを突き付けてはどうだろうか?
どの政党も信頼できないというのなら、
せめて現地で鉛筆転がして投票先を選んだ方がいい。
それだけでも多少は組織票を薄める効果があるだろう。
そもそも完璧なマニフェストも
100%自分の思いに沿った政党もあるわけないし、
「最もマシな選択肢を選ぶ」というのは人生と同じである。

ワタクシもそんな感じで投票先を悩んだ一人である。
ただ、少なくともハッキリしているのは
「失われた20年」の一端を担いだ土建屋へのバラマキ政治へ回帰した自民党や
優しい笑顔で思いっきり若者を斬り捨てる共産党は選択肢にすら入らない。
あとの政党は政策の好き嫌いはあるけれども、
そのワタクシの好みが仮に論理的に正しくても
それが日本社会にフィットするかは分からない。
実現できるのかさえ分からない。
ただその中で一つだけ異彩を放つ政党がある。
日本維新の会である。
ここだけが中央の官僚が支配する統治機構を改革すると明言している。
政策の善し悪しは別にして、
民主党が言ってた「政治主導」がかけ声倒れに終わったのも
決定できない政治システムがその問題の根底なのであって
ここが変わらなければおそらくどの政党が政権を取っても
ほとんど何も変わらないだろう。
民主党のようにかつての自民党化していくだけなんじゃなかろうか。

ということで、
その改革が本当に実現できるのかどうかは分からないが、
またワタクシ好みの政策を掲げているのを抜きにしても
明らかに他の政党と違った本質的な改革を掲げている点で
ワタクシは維新の会を支持する。




ネット党首討論会を見てみた

ニコ動でやってたやつ。
http://live.nicovideo.jp/watch/lv116879569
リアルタイムでは全然繋がらんかったが、タイムシフト視聴はできた。

この番組のテーマは3つ。
TPP、消費税、原発 だ。

その辺りの討論を聞いた感想を簡単に述べてみる。
(およそツイッターでつぶやいた話)

まず、TPPについてはみんなオバケにビビり過ぎだと感じた。
外交交渉なんだからそりゃアメリカも自国に有利な条件をねじ込もうとするだろうけど、
それから逃げるんじゃなくてどうやって渡り合うか考える方が大事なんじゃないの?
最終的にどうにも国益にならんものだったら離脱すりゃいいわけだし。
ワタクシは、以前もブログで述べたように、TPPには賛成だ。
公的医療制度が議題に上るとは外務省も言ってないし
グローバル化に対応するには参加せざるをえないんじゃないのかね?
色々反対論があるが、どれも論理に無理があるので
積極的に反対しなければならない理由が見当たらない。

次に消費税問題。
「消費税は小学生も負担しなければならない」と誰か言ってたが、
そうですよ、だから節税に勤しむタコ社長も
資産をたんまり溜め込んだ銭ゲバ老人も
裏社会のチンピラも逃れられない公平性が消費税の利点なんでしょうが。
いわゆる逆進性は問題になるが、
貧困層対策は別の制度でそれなりにやりようがあるだろう。
それと益税問題も、ありゃ制度の問題なんだから何とでもなるでしょうに。

それと原発問題。
驚いたのは視聴者のコメントのほとんどが原発賛成になってたことだ。
しかしまあ、実際問題、新規建設は政治的に不可能だろうから、
放っといても自然にフェードアウトするんだろうが、
即時停止は現実的にはナンセンスだ。
全ての原発を停止するってことは、
現在電力会社の「資産」である原発を政府が毀損することになるが、
そんなこと許していいの?
そのことによって債務超過に陥ったら結局税金で補填することになるが、
それでもいいというのだろうか?
一方で2030年代に原発をゼロにするって政策も
どうせそんな頃まで責任取れる人なんていないんだから無責任な話だ。
だとすると今回の総選挙の争点にすらなりえないのではないかと感じた。

といった感じで、
ワタクシの中では原発以外は終始正論を吐いてた野田首相に軍配。
民主党がリードした感があるかな。
ただしエネルギー政策については自民党に理がある。
総選挙後は民自公の連立で野田首相再任ぐらいが現実的には妥当なのかなといった感想を持ちました。

あとね、
社民党の福島さんが「瑞穂の国」と言い出したのがおかしくってたまらんwww
今でも思い出し笑いしてしまうよ(^^;)

JUGEMテーマ:選挙


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