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【書評】『精神科病院で人生を終えるということ』

皆さんにとって、「精神科病院」それも精神科病棟を持っている大学病院や総合病院とかではなくて、いわゆる「単科」の精神科病院だとか「精神病院」とか言われてきた病院のことについてどのようなイメージを持たれているだろうか。

私は学生時代のアルバイトからずっと精神科病院で働いてきたので、イメージが上書きされてしまってほとんど覚えていないんだけど、子供の頃に、墓地の裏にひっそりと建っている窓には全て鉄格子という異様な雰囲気の病院を見つけて

「あれは何?」

と母に聞いたら

「あれはね、キチガイを閉じ込めとくとこよ。アンタも人の言うこと聞かんとわけわからんことばかりしょうると、あがなとこにブチ込むけえね」(広島弁)

と言われて、ちょっと怖いなと思った記憶なら、ある。

しかし、そのように人の目から遠ざけられて、まるで最初から無かったかのようにされて、近付くことも忌避されていたところにも、当然ながら多くの人の人生があり、ドラマがあったのだ。

現代ではうつ病や適応障害などが注目され、精神科医療も「隔離」から「癒し」の場へとシフトしてきたわけだが、かつて社会から「隔離」されてきた人たちがいなくなったわけでは決してない。

今も日本中の精神科病院でひっそりと生き、そして死んでいるのである。

 

本書は、そのような方々にスポットを当て、様々な葛藤や矛盾や答えのない問いに苦悩する若き精神科医の手記である。

 

という感じで偉そうに書いたら怒られるかもしれませんけどね(^^;)

ありがたいことに著者の東徹先生から献本と言ってよいのかご著書を送ってきてくださったので、簡単に感想を書いておきます。

書評とするからには、極力「くもりなきまなこ」で読んでみたつもりです。

 

さて、本書は基本的には日経メディカルで連載されていたコラムを加筆して書籍としたものだが、最初に手に取ったときの重厚さとは裏腹に、読んでみると楽に読める。

疾患や治療の説明が平易な言葉で丁寧になされているため、おそらく医療関係者でなくても読める内容になっている。

精神科医療をある程度理解している人であれば、そこらへんは飛ばして読めるし、1話ずつの構成になっているのでスキマ時間などに少しずつ読み進められるだろう。

 

本書のサブタイトル『―その死に誰が寄り添うか』は、本書の中で一貫したテーマである。

あなたは、自分の今際の際には誰が寄り添ってくれるか、考えたことがあるだろうか。

普通は家族であろうが、そうではない人が、精神科病院に長期入院しているケースでは結構多い。

本人の病気に振り回されて、家族も疲弊していることはよくあることで、そこに渦巻く感情が、「その死に誰が寄り添うか」を複雑にしていることがある。

 

(引用)

 本書のタイトルにある「その死に誰が寄り添うか」。家族が寄り添えない場合も多くご紹介してきました。細かい事情は様々ですが、病状の重さに疲れ果てて家族の心が離れていってしまったケースも多いのです。一般的に「家族のようなケア」という言葉は良い意味で使われます。家族なら親身になるのが当然だ、という発想ですね。しかし、時として、いや往々にして、家族だからこそ感情がもつれてしまう、冷静でいられなくなることもあると思うのです。愛憎は紙一重です。

 

確かに一切連絡を絶って関わろうとしない家族もいる。

個人的に「酷いなぁ」と思ってしまう家族もある。

しかし、事情を聞けば責められないケースも多いのだ。

それに、一時的に本人の病気と感情に振り回されただけで、実際にはその後もずっと揺れ動いている家族のほうが多数派である。

また、そのような家族の気持ちは時と場合によって揺れ動くことも描かれている。

例えば、延命治療を行うか、どの程度行うかということについて、引用してみよう。

 

(引用)

 やはり、家族も常に葛藤があるのだと思います。なるべく長生きしてほしい。けれど、そこまでしないといけないだろうか。それと、どこまでも世話を続けることにも限界を感じる。かといって、見捨てているようでそれはそれで心苦しい。

(中略)そしてそれは、家族だけでなく、本人の意思でも同じことだと思います。元気な時に思っていることと、体が弱ってから思うことは変わることがあるのは当然です。

(中略) もう少し付け足せば、元気な時に「延命治療はいらない」という明確な意思を、例えば書面に残して表明していたとしても、意識が混濁していたり、十分に意思表示ができなくなった時に、その思いは本当に変わらないのかという疑問もあります。意思表示ができないのと、感情がないのとは同じではありませんからね。

 

家族や、本人の判断は時間とともに揺れ動く。

そして、治療の判断をした医師も、揺れ動くのである。

 

(引用)

 胃瘻造設をした直後の数日は、もちろん「胃瘻を造設して良かった」と感じます。比較的安全に栄養を投与できるようになったわけですから。逆に言えばそう思うから胃瘻にしたわけです。

 しかし、1ヶ月後には少し印象が変わります。「食事も取れないで寝たきりのこの人の人生は、本当に意義があるのだろうか。胃瘻は無駄なことをしたのではないだろうか」。

(中略)しかし、3ヶ月後に今度は、「いや、これだけの期間、命を永らえることができたのだから、これは有意義なことだろう」と思えてきます。ところが、また1年後には、「生きる苦痛をただ延ばしているだけではないだろうか」と思えてきます。そして3年後には、「これだけの時間、生きることができたのが無駄なはずがない。無駄な命などない」などと思うのです。

 

そう、本書で展開される話は結局、精神科病院とはいえ、人がどのように亡くなるのかということにまつわる葛藤のストーリーだったのである。

ではなぜそれがことさら精神科病院ということがさも特殊なものとして取り上げられなければならないのか。

 

(引用)

院内には、簡素ではありますが葬儀ができる場所があります。中村さんもそこで葬儀を行いました。家族がいませんでしたから、参列者は病院のスタッフ、そして後見人だけでした。

(中略)そこへ、師長が数枚の写真を持ってきました。それは中村さんが若い頃の写真でした。

(中略)そこには、元気に笑っている中村さんの姿がありました。病院で開いた運動会の時の一場面、一泊旅行に行った時の様子などでした。長期入院の方も多く、運動会や旅行など、リハビリの一環としてそのような行事を病院でよく開いています。それらは形を変えながらも今も行っています。そして、その中村さんは、僕が担当してからの、寝たきりで話もほとんど通じなかった中村さんとは全く別人のようでした。

(中略)残念ながら、中村さんは社会復帰ができるほどには回復できませんでした。だから、ずっと入院していたのです。そう考えるのが当然です。

 しかし、写真を見ていて思うのは、本当にそうだったのだろうか、という疑問です。こんなに元気に笑っている人が、泊りがけで旅行に行ける人が、本当に退院できなかったのだろうか。病院ではなく、社会の中で暮らせなかったのだろうか。

(中略)写真を見ながら中村さんが社会に戻れなかった50年間に思いを馳せました。なんという長さだろうか、と気が遠くなる思いでした。

(注:本書における登場人物の名前は全て仮名です)

 

50年間!と驚かれた人もいるかもしれないが、私も自分の歳より入院期間が長い人と話したことがあって、その人に昔の写真を見せてもらったことがある。本当に衝撃的だった。と同時に、精神科医療が背負うものの重さ、業の深さを感じたものである。

 

「社会的入院」ということが語られることがある。

あまりに長い入院生活によって社会で生活する能力を失ってしまったために余儀なくされている入院といったニュアンスで使われているが、それにはもう一つ別の側面があって、社会のどこにも居場所がないために余儀なくされている入院といった意味もある。

精神障害者の何年、何十年に及ぶ長期入院は、あたかも精神科病院の問題であるかのように語られることがあるが、長期入院はあくまで「社会の要請に対応してきた結果」であって、重度の精神疾患を抱える人があなたの職場の同僚に、あるいは友人に、または隣人に、そして同居家族にいてもいいのなら、長期入院なんてそもそもありえないのだ。

 

ところが、実際には精神障害者への差別や偏見は、この日本の社会には厳然として存在する。

本書の中でも著者が何度も憤っておられるが、一般の病院が精神疾患(を持つ人の身体疾患の治療)を受け入れてくれないから、精神科に「身体合併症病棟」なるものが必要になるのである。

これはまさに差別や偏見が医療従事者の中にも根強いことの象徴かもしれない。

医療において患者の「たらい回し」という悪い意味の表現があるが、精神科病院と一般科病院との間には「キャッチボール」とでも言うべき状況も時に見られる。精神科としては「これぐらいの精神状態なら一般病棟でも大丈夫」と思って患者を搬送しても、十分に身体的治療を終えないうちに「もう大したことないからそちらで診てください」と送り返される。最悪断られる。一般科病院では何でもない病状であっても、設備もマンパワーも一般科病院と比べると見劣りする精神科病院でフォローできるものには限りがある。だからまたすぐに転院を要請することになる。でもちょっと不穏状態を呈しただけで送り返されてくる。結局多少無理しながら精神科でも身体疾患を治療しなければならない状況が生まれてきている。

(まあ薬剤師としてはそのせいで国試以来その文字すら見たこともないような不得手な薬をちゃんと効果や副作用をモニタリングして適切な使用方法を主治医に助言できるだろうかという不安とか突然亡くなられて高額な在庫を抱える恐怖とかでついつい憤ってしまうんだけど(^^;)

このような現状のなかで、精神科医療を担っている者がどのように悩み、苦しみ、そしてどのように希望を見出そうとしているか、これは本書を読み進めていくと具体的なエピソードとして明らかになるだろう。

 

しかし、だからといって一般病院や社会を責めることもできない。

そもそも、私たちは誰も「自分は全く差別や偏見感情を持っていない」と言うことはできないからだ。

これについては、本書の締めくくりとして、元のコラムにはなく加筆した章として「相模原障害者施設殺傷事件」を取り上げることで述べられている。

その事件の犯人が精神障害者であると決まったわけではないが、少なくとも措置入院という形で精神科医療が関わった事実はあるわけで、本書で述べられる考察を読むことを通して「精神疾患とは何か」を考えていくと「異常とは何か」に行き当たることにも気付いていただければと思う。

そしてその線引きをしているのは自分なのであって、自分にも差別や偏見の感情があるかもしれないこと、そして必要なのはそのような感情を無かったことにしてしまうのではなく、うまく折り合っていくことではないかということを私は改めて感じるのである。

都合の悪い部分を無かったことにしてしまおうとする態度こそが障害者(=マイノリティと言ってもいいかもしれない)を迫害する空気の源になっているのだから。

 

という風に書いたらなんだか重いように思われるかもしれないが、実際には先に少し引用したように、著者の優しい人柄(かな?実は実際にはお会いしてお話させていただいたことが無いので予想ですが(^^;)がにじみ出ているような優しいタッチの文章なので、表面的にはライトな読み方もできる。ただ、一旦本を閉じて目を閉じて考えてみると、上記のような思いが湧いてきた次第である。

 

そのような内容なので、冒頭に書いたように、一般の人でも精神科医療の闇の部分にちょっと興味がある人が読んでみるのはおすすめできるし、これはもしかしたら精神科病院における新人教育にも使える内容かもしれないと思っている。

少なくとも、私のような精神科薬剤師には間違いなく読むことをオススメしたい。

薬剤師がつい忘れがちになる精神科医や患者や家族の悩みについて触れることができるだろう。

 

唯一気になった改善点を申し上げるとしたら、事実に基づいているとはいえ、全て架空のエピソードとして書かれていること、そしてその点を度々強調されていること、そしてあらぬリスクを避けるためと拝察いたしますが自己弁護が多いこと、これらがやはり本書への引き込みや感情移入を阻害しているように思われ(まあ元々日経メディカルという医療者向けメディアでの連載ということを考えると、そういう読み方は著者は期待してなかったかもしれないが、一般の人に読んで欲しかったら必要なことかもしれない)、ルポルタージュのようなものとして読み進めるとくすぶったような微妙な感じがあるので、このように一冊の書籍としてまとめるのであれば、もういっそのこと「若き精神科医の苦悩のドラマ」として小説にでもしてしまったほうが良かったかもしれない。

いや、これはイチ読者の勝手な意見ですけど、今からでも脚本にしてテレビドラマ化(あるいは自主制作してYouTube?)を目指してみたらいいんじゃないですかね?結構強いメッセージがあるように思いますけどいかがでしょう。

 

精神疾患とは何か。

精神障害者が受ける処遇は誰が望んだものなのか。

そしていつか必ず誰にでも訪れる死には誰が寄り添うか。

目を背けるのでも無かったことにするのでもなく、

本書を手に、一度は身近なものとして考える機会を持ってみてはいかがでしょうか。

 

 

 

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